第59回NHK障害福祉賞佳作受賞作品~「隠したくて、隠したくない~難聴の娘とセルフアドボカシー」遠山紀子

インテグレーション・通常学級・難聴学級・通級指導
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NHKでは、毎年、障害のある人自身の貴重な体験記録や障害児・者の教育や福祉の分野でのすぐれた実践記録に「NHK障害福祉賞」を授与しています。2024年は59回目になりますが、その応募論文の中から、重度難聴のお子さんを育てられた遠山紀子さんが選ばれました。 
 遠山さんのお子さん(友梨さん)は、公立聾学校乳幼児相談から幼稚部入学。途中から普通幼稚園へと転園し、小・中・高そして大学医学部へと進みました。この体験談は、友梨さんの障害発見以来歩んでこられた20数年の子育ての記録であり、その過程での揺れ動き、葛藤など障害ある子をもった保護者のありのままの気持ちが包み隠さず書かれており、そういう点で読む人の共感を得られる手記だと思います。 
 
 この手記は、友梨さんが大学医学部に入学した時、入学式の時に少しの時間をもらい、自分の障害について開示するところから始まりますが、ここに友梨さんの心の面での成長もみることができます。 

 かつての聴覚障害児教育の世界では、障害を否定的にみる見方が強く、子ども本人もその影響を受けて自分の障害をマイナスに見てしまい、自分の障害を周りに気づかれないように隠す人が多かった(そのように育ってしまった)のですが、その点、友梨さんはジョークも交えながら明るく自己紹介(自己開示)したわけです。こうした、自分の障害を周りの人たちに知ってもらい、自分に必要な適切なサポートを得ることをセルフアドボカシー」と言いますが、こうした力はどのように育っていったのでしょうか? また、私たちはさまざまな人達と関わる中で自分の主張だけを通すのではなく、相手の気持ちや価値観を尊重しつつ自分のことを適切に伝えることも大切です。このような力を「アサーションスキル」と言いますが、友梨さんは、このような力をつけつつあることもうかがえます。
 障害者に対する差別や偏見の根強い日本の社会で、友梨さんはこれからもまだまだたくさんの理不尽な出来事に直面すると思いますが、身につけた日本語力・論理的思考力、そしてセルフアドボカシーアサーションスキルの力で、よい人間関係を築き、周りを変え社会を変え、たくましく未来を切り開いていってほしいと思います。以下、友梨さんはどのように育っていったのか、遠山紀子さん(ママ)の手記を、ご本人及びNHK厚生文化事業団の許可をいただき、以下、掲載致します。因みに挿入したイラストは本文に合わせて木島が作成したものです。(木島記)

難聴医学生の誕生

「突然ですが、耳が聞こえない人に会ったことがあるという人は、手を挙げてくだい」
あたりを見回しながら、おずおずと数名が手を挙げた。

二〇二一年四月上旬、都内にある医科大学の入学式。講堂を埋め尽くすのは、真新しいスーツに身を包んだ新入生。熾烈な受験競争を勝ち抜いた猛者たちが、誇らしげに頬を紅潮させつつ、式に臨んでいる。
壇上には、ひとりの新入生。長身でスラリと細身。長い髪を後ろで一つに束ね、両耳には何かが光っている。
「実は今、みなさん全員が、耳が聞こえない人に会っています」
ざわつく学生たち。

「私は、生まれつき両方の耳がまったく聞こえません」
一気に静まる会場。

「一歳から補聴器を装用しましたが、効果がなく、二歳の時に右耳に、九歳の時に左耳に人工内耳の手術を受けました。人工内耳とは、障害がある蝸牛に代わって、音を電気信号に変え、聴神経に伝える医療機器で、補聴器を装用しても聴力の改善が見られない高度から重度の聴覚障害者に有効な場合があります。ただ、人工内耳を装用しても、健聴者│つまり、みなさんのように耳が聞こえる人│のように聞こえるわけではありません。私は母の言語訓練により、ある程度聞こえ、話せるようになりました。自分自身が、医療の恩恵を受けてきたのでその恩返しがしたく、医学部進学を目指しました」
真剣な面持ちで耳を傾ける同級生たち。

「興味のある方は『人工内耳』で検索してみてください。いずれ、授業で習います。予習できてラッキーですね!」
会場から笑い声が上がる。少し場が和んだところで、難聴の新入生は最も伝えたいことを話し始めた。

「難聴者、人工内耳装用者のきこえは人それぞれです。私の場合は、静かな環境下で一対一や、少人数では会話が成立しやすいですが、騒音下や、大勢での会話は難しいこともあります。私は聞き返したり、聞き逃すことがありますが、これは私の不注意や努力不足ではなく、障害特性です。私はどれだけ集中して、努力しても、健聴者のように聞くことはできません」

そして、授業で取り入れる予定の合理的配慮(教室前方に着席する席順配慮や補聴援助システムの使用など)の説明や、自分と接する時に心がけてほしいことをひととおり話した後、難聴の新入生は穏やかな笑みを浮かべ、こう結んだ。
「これから六年間、みなさんと一緒に過ごすことを楽しみにしています。私を見かけたら、気軽に話しかけてくださいね!」

娘が難聴児になった日

 この難聴の新入生とは、私の娘、友梨(ゆり)のことである。二〇〇二年十月十二日、私たち夫婦の第一子としてこの世に生を受けた。後にも先にも、私の人生で一番うれしかった日。母親に似て色白で、手足の長い美しい赤ちゃんの耳が聞こえないとわかったのは、その一年四か月後。私の人生で一番苦しかった日。

「先日の精密検査の結果ですが、両耳とも反応がありませんでした」
大学病院の診察室で、夫と私は、身動きひとつせず医師の説明を聞いていた。えっ、反応がない? どういうこと? 徐々に医師の声が遠くなる。一歳を過ぎてもことばが出ず、音への反応が乏しい我が子を心配していたけれど、そうか、耳が聞こえなかったのか。もっと早く病院に連れて行けばよかった。親失格。

素直に喜べなかったお耳の誕生日
「今日は、友梨ちゃんのお耳の誕生日です」
それから二週間後、都内のろう学校にて。言語聴覚士が、今まさに娘の補聴器のスイッチを入れようとしている。私といえば、心身のダメージは甚大で、睡眠もほとんど取れていないような状態。先生、そんなに明るい声で話しかけないで。

「友梨ちゃーん。ほら、お母さんも名前を呼んであげてください」
いや、聞こえているかいないかわからないような子に呼びかけるなんて。

「ゆ、友梨ちゃん……」
何とか声を振り絞ると、娘は目をキョロキョロさせていた。

「良い反応ですね! きちんと声は届いていますから、いっぱい話しかけてあげてください」
ほんとに良い反応なのかなぁ? そう言えば、難聴だとわかる前は毎日普通に話しかけていたのに、確定診断が下りてからというもの、あまり話しかけなくなっていた。

補聴器か。てっきりお年寄りが使うものだとばかり思っていた。無邪気に笑う一歳児の小さい頭で、ベージュの補聴器だけが大きな存在感を放っていた。

本音を言うと、私の可愛い赤ちゃんの補聴器姿なんて、誰にも見られたくない。耳が聞こえないなんて誰にも知られたくない。この子はどうやって生きていくのだろう。友達はできるのか、大学に行けるのか、働けるのか、結婚できるのか。将来子どもを産んだら、まさかまた難聴? 嫌だなぁ。私の人生、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。まだ二〇代で、やりたいこともいっぱいあったのに、人生おしまいだ。素直に喜べないお耳の誕生日の夜、私はひとり泣き明かした。

電車に乗れなくなった日

「ほら見てあの子、補聴器なんかしてる。あんなに小さいのに」
「ほんとだ、耳が聞こえないのかな。かわいそうだね」
ろう学校へ向かう電車の中で、そんな会話が耳に飛び込んできた。補聴器、耳が聞こえない……ああ、友梨のことか!

苦しい。息ができない。

足早にベビーカーを押して逃げるように次の駅で降り、しばらくホームのベンチで呼吸を整えていた。私はかわいそうな子を産んだのか。そんな思いが頭の中をぐるぐる回る。

もしタイムマシンがあれば、今すぐ若き日の私のもとに駆けつけて抱きしめ、「大丈夫、その子は立派に育つ。あなたの一番の話し相手になる。それに、信じられないかもしれないけど、医学部に入学するんだよ」と教えてあげたい。

そんなことを想像すらできなかった私は深く傷つき、何とその日を境に電車に乗ることができなくなってしまった。それから何年もの間、どこへ行くのも車で移動した。

難聴を隠さず育てることを決意

娘がろう学校乳幼児部に通い始めてから五か月ほど経ったある日、大学生や社会人となった卒業生と在校生の交流会が開催された。私はそれまで、成人の難聴者と接したことがほとんどなかった。補聴器を装用したものの発語はおろか音への反応すら乏しい娘を抱え、暗いトンネルをあてもなくトボトボ歩くような日々を過ごしていた私は、少しでも気持ちが晴れるのなら、という思いで交流会に参加した。

しかし、そんな淡い期待はすぐに裏切られた。まず、卒業生の発話が不明瞭で、何と言っているか半分も判別できない。「手話が使えないこと」をなぜか誇らしげに語る彼らの口話を聞いて、「こんなに発音が悪くて、日々どうやってコミュニケーションを取っているのだろう」と心底不思議に感じた。さらに、「大学で友達に難聴のことは話していません」「聞かれたら話そうと思います」「会社で困っていることは特にありません」などと衝撃の発言が相次ぎ、理解に苦しんだ。学校や職場で難聴を隠し、何の配慮も受けていないと口をそろえる卒業生たち。私に言わせれば、難聴を隠すことによって、自分たちをより不利な状況に置いていた。

そこで、私は決心した。娘の難聴を隠さずに育てよう。障害をオープンにして、周囲に堂々と必要なサポートを求めていこう。いずれは、娘自身がそうできるように育てていこう。「難聴を隠さない」は、「補聴器を隠さない」から。思い立ったが吉日、私は、ベージュの補聴器ふたつ(両耳分)を補聴器販売店に持ち込み、中身はそのままで、外部カバーをひとつはオレンジ、もうひとつは青に交換してもらった。「障害のある本人が、自らに必要な支援を周囲に説明し、理解を得ること」が「セルフアドボカシー」と呼称されると知ったのは、それから随分後のことだった。

今思い返すと、私はろう教育の歴史についてあまりに無知だった。二〇〇〇年初めに大学生や社会人だった彼らは、重い難聴でありながらアナログ補聴器を装用し、手話を禁止された挙句、厳しい聴覚口話法で教育を受けた。難聴を隠し、聞こえなくてもひたすら我慢。聞こえたふり、わかったふり、愛想笑い。合理的配慮などという概念すらなく、聴者の世界で窮屈な思いをしながら、遠慮がちに生きてきた彼らの心の叫びなど知る由もなかった。後日、その事実を初めて知った時、自分の無知さ加減を深く恥じ入った。

どうしてもできなかったハーフアップ

二〇〇六年四月、娘はろう学校幼稚部へ入学。その前年に右耳に人工内耳手術を受け、聴覚活用法で育ち、比較的良好な言語発達を遂げつつある娘は、医師や言語聴覚士から一般の幼稚園へのインテグレーションを勧められるようになった。夫と私もそう希望しており、まずは月二回、地元の保育園の「障害児交流保育」へ参加することになった。その頃の娘は、セミロングの髪をハーフアップにしてまとめていた。両サイドの髪の毛を後ろで結ぶと、人工内耳と補聴器がよく目立つ。
交流保育にあたり、事前に娘と一緒に何度か園へ足を運び、難聴や人工内耳、補聴器の説明をした。障害児に門戸を開くことにより、園児と障害児双方にとって交流の機会を設けるという、当時としては画期的な取り組みだったが、障害児には保護者の付き添いが義務付けられていた。それまでろう学校だけに通っていた娘にとって、大勢の健聴児と関わるのは初めての経験だった。

交流保育初参加の朝、私はいつも通り娘の髪をハーフアップでまとめた。人工内耳と補聴器がよく見える。はい、これでばっちり。
「友梨ちゃん、今日は保育園の日だよ。お母さんと一緒に、〇〇保育園に行こうね。この間会った××先生に会えるよ。お友達もたくさんいるかな」写真カードと、事前説明に行った日の絵日記を交互に見せながら、話しかけた。

「きょうは、ほいくえんだね!」
元気良く玄関へ向かう娘の右耳には人工内耳、左耳には補聴器。これを目にした園児たちは一斉に「耳に何つけてるの?」と聞いてくるだろう。それでいい。そのために目立たせているのだから。

……本当にいいのだろうか。まるで見せ物じゃないか。本音を言えば、自分の子が難聴だなんて世界中の誰にも知られたくはない。そもそも難聴の子だったら要らなかった。聞こえる子が欲しかった。こんなことになるなら、子どもなんて産まなければよかった。ろう学校ならまだしも、保育園で人工内耳と補聴器をわざわざ見せるなんて……やっぱり無理。

玄関で手こずりながら、何とかひとりで靴を履こうと奮闘している娘の小さな背中に駆け寄り、ピンク色のプラスチックのウサギがついたヘアゴムをそっと外した。白くて小さな顔の両サイドにふわっと髪の毛がかかる。よし、全然見えない。はい、これでばっちり。
「ママ?」
不思議そうに見上げる娘。
「友梨ちゃん、自分で靴を履いてえらいね! じゃあ、保育園に行こうね!」
動揺を悟られないように明るく振る舞う私の右手の中では、一部始終を見てしまったウサギが、まるで軽蔑するような笑みを浮かべていた。

区立小学校へ入学

交流保育初日は私の心を大いにかき乱すものであったが、その後回数を重ねるにつれ、娘をハーフアップで登園させるようになり、園児たちに人工内耳や補聴器が大切なものであることを伝えていった。年中ではろう学校から幼稚園へインテグレーション。一番通わせたかった幼稚園からは障害を理由に入園を断られたが、失意の中、扉を叩いた区立幼稚園では難聴の専門知識を持つ加配の先生をつけていただき、試行錯誤しつつも思い出深い二年間を過ごした。

いよいよ小学校入学の日。難聴学級を設置している小学校の学区へ転居したため、知り合いがひとりもおらず、初めて出会うクラスメイトと保護者へ難聴について説明をした。傍らには右耳にピンクの人工内耳、左耳にオレンジの補聴器を装用したハーフアップの娘。
「みなさん、はじめまして。遠山と申します。〇〇から引越してきました。娘の友梨は、生まれつき耳が聞こえません。右耳に人工内耳、左耳に補聴器を装用しています。この人工内耳というものは……」
手も足も震え、声が上ずっていたが、何とか話し終えた。

人工内耳装用児の受け入れは初めてということで、すべてが手探り状態。席順配慮、補聴援助システムの使用、ノートテイクなど情報保障を段階的に取り入れていった。

その後、娘は小学校三年生の終わりに左耳にも手術を受け、人工内耳両側装用となった。

理解されない苦悩

 難聴を隠さず、必要な支援を申し出ることは難しい。しかし、それ以上に難しいのは、なぜその支援が必要か、正しい理解を得ることだ。娘の場合は難聴児にしては良いきこえと発音、そして良好な学業成績がその障壁となった。
「こんなに聞こえているし、上手に話すんだから、大丈夫でしょう」
「勉強ができるから、情報保障は必要ないと思います」
このような反応は日常茶飯事だ。その都度、人工内耳を装用していても聞こえづらさは残ること、成績が良いことと支援が必要ないことはイコールではないと説明するが、現在にいたるまで、本質的な意味で伝わったという実感を持ったのは数えるほどだ。

ノートテイクを拒否

「最近、朝会のノートテイクに入っていないんですよ」
娘が小学校四年生になったある日、難聴学級の教員から衝撃の事実を聞かされた。まだ情報保障が一般的ではなかった当時、私が粘り強く交渉してようやく導入されたノートテイクだ。月曜日の全校朝会で話される内容│例えば校長先生の講話や、各委員会からの連絡事項など│を教員が娘の横に立って、手元の紙に書き出していた。低学年のうちは素直に受け入れていたが、同級生の手前、気恥ずかしさを覚えるように。ある朝、いつものように教員がボードに挟んだ大量の紙とペンを片手に隣に立つと、娘は
「先生は、向こうで待っていてください」
と言い放ったのだという。これには驚いたが、それ以上に驚いたのは、先生が娘の要望をすんなり受け入れ、静かに後方に引き下がったことだった。
「今は、そういう時期なのだと思います。様子を見ましょう」
娘に対して「聞こえていないのに」と怒り出すわけでもなく、私に対して「お母さんが強く希望するからノートテイクしていたんですけどね」と嫌味を言うわけでもなく、静観という道を選んでくださった。私は申し訳なさと心強さを感じた。

 その後、しばらく情報保障なしで朝会に参加していた娘だが、やはり聞こえづらさを感じたようだ。ある朝、いつものように後方で待機する教員に対して、「おいで」と言わんばかりに小さく手招きをして、呼び戻した。私は安堵すると同時に、子どもの気持ちを尊重し、時として待つことの大切さを学んだ。

人生をやり直したい

 小学校高学年になると、人間関係が複雑になる。特に女子はグループを形成し、グループ内での序列化などの問題に直面する。娘もご多分にもれず友人関係に深く悩み、苦しんでいた。聞き逃し、聞き返しはしょっちゅうで、テンポの早い複数での会話やヒソヒソ話が苦手な娘にとって、人生最大の試練。荒れに荒れた大海原で、溺れないように必死にもがいている我が子へ向け、私は鬼の形相でボートの上から拡声器を使って「この嵐はいずれ止む」と叫び、何とか救助しようといくつも浮き輪を投げたが、それらが届くことはなかった。
ある日、娘が呟いた。
「小さい頃に戻って、人生やり直したいよ」

「戻るってどこまで? 幼稚園くらい?」
胸が押し潰されそうになりながらも、私は何とか声を絞り出した。

「お母さんのお腹の中。健聴になって生まれ直したい」
次々と降りかかってくる問題の多くが難聴に起因するものであり、その根本的原因である難聴を取り除けば、困難さが減ると考えたのだろう。私は、この時ほど娘を難聴で産んでしまったことに罪悪感を覚えたことはなかった。

セルフアドボカシーの実践

 小学校では、私や難聴学級の教員が難聴の説明を行う機会が多かったが、本人にも少しずつ自分で説明するよう促していた。そして、中学受験を経て入学した私立の中高一貫校で、いよいよ本格的にセルフアドボカシーを行うことになった。
入学式の後、娘はクラスメイトに対して、自分で難聴と人工内耳の説明を行った。拙いながらも、何とか言うべきことは伝えられた。そしてその後、新学期やクラス替えの度、セルフアドボカシーを行うようになった。英検などの資格試験や、模試のリスニングなどの配慮も自分で申請した。思春期と重なり、自らのアイデンティティに深く悩んだ時期だったが、少しずつ自分のきこえの説明や必要な支援の申し出を行う力をつけていった。

自分の難聴をネタに

「お母さん、これ見て!」
高校から帰宅するなり娘が満面の笑みで差し出すのは、健康診断の結果が記された用紙。
「えっ、何かひっかかっちゃった?」
一抹の不安を感じながらその用紙に視線を落とすと、「聴力異常。要精密検査。耳鼻科を受診してください」の文字。思わず顔を見合わせて大爆笑。
「聴力異常だって!」
「あら~、大変。病院に行かなくちゃね」
ふたりで、おなかがよじれるほど笑った。
先天性難聴であり、身体障害者手帳二級の娘は、当然ながら健康診断での聴力検査は免除だが、なぜかその年は手違いで受検することに。もちろん何も聞こえないわけで、前述のような結果となった。
障害をネタにするなんて不謹慎だと思われそうだが、私は自分自身に関しては、ありだと思う。難聴であることは変えられない。変えられないことに必要以上に悩みたくはない。むしろ笑い飛ばして、前進する力に昇華させて欲しいといつも願っていた。実際、そうなりつつある娘を目の当たりにして、どれほど頼もしく感じたことか。

障害は社会にある

 この二〇年あまりを振り返ると、私たちは難聴そのものではなく、社会の理解不足や不適切な対応に苦しめられてきた。難聴自体は中庸である。実際、耳が聞こえないことで悩んでいる赤ちゃんは存在しない。周囲が勝手に「かわいそう」「耳が聞こえないなんて、苦労するよ」とラベリングする。難聴児の九割以上が健聴の親のもとに生まれるが、親は自分が聞こえる上、社会が「障害者=かわいそう」と決めつけているから、聞こえない我が子を不憫に思う。我が家がまさにそうだった。

私自身、できれば娘の難聴を隠したかった。しかし、そんなことをすればさらに困難な道が待ち受けていることは明白だ。「私の娘は、生まれつき耳が聞こえない」、その一言を発することに慣れるまでには気の遠くなるような時間がかり、娘自身がセルフアドボカシーの力をつけるのも一朝一夕とはいかなかった。幼少期から時間をかけて、少しずつ自分のきこえと必要な支援について説明できるようになった。その集大成とも言えるのが、冒頭の医学部入学式だ。難聴は見えない障害である。だからこそ、難聴を隠さず、自分自身のきこえや必要なサポートについて説明して、そのサポートを得ることが何より大切なのだと私は思う。

大学四年生になった娘に、改めて自分の障害についてどう思うか聞いた。

「私にとって難聴は、乗り越えたり、克服するのではなく、ともに歩んでいくもの。人工内耳は私の一部。お母さんの教育方針で、セルフアドボカシーの力をつけることができたのが一番良かった。これからも難聴を隠さず、自分に必要な配慮や支援を勝ち取っていきたい。そして、ひとりの難聴者として、医師として、理不尽なことが少なくない社会を少しでも変えていきたい」
きっぱりとそう言い切る娘の両耳には、人工内耳がキラキラと輝いていた。

選評

 娘さんの難聴を隠さず、堂々と必要なサポートを受けていこうという筆者の決意。それでも、必要な支援を申し出ること、周囲から正しく理解を得ることの難しさ……。「セルフアドボカシー」といっても容易ではなく、筆者のその時々の葛藤とともにその困難がとても良く伝わってきます。それだけに、この作品を読み終わった後、冒頭の大学の入学式の壇上で、娘さんが自分の障害について話すシーンを改めて読み、筆者と娘さんに喝采を送りたくなりました。作品の最後、これからの自分の医師としての生き方を言い切る娘さんの言葉も素敵です。(藤澤 浩一)

受賞のことば(遠山紀子)

 この度は、栄えある賞を誠にありがとうございます。これまでお世話になった友人、知人、家族をはじめ、医療・教育・福祉関係の方々に深謝申し上げます。拙文が、難聴やセルフアドボカシーへの関心および理解を深める一助になれば、こんなに嬉しいことはありません。何より、私の人生を彩り豊かなものにしてくれた難聴の娘に感謝いたします。友梨、生まれてきてくれてありがとう。

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