「おとなになれなかった弟たちに・・」中1年国語~過去形と現在形の巧みな使い方

国語教科書
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 8月といえば、昭和の頃に子ども時代を過ごした私にとっては「広島・長崎に原爆が投下された夏」であり「終戦の夏」です。
 太平洋戦争が終わってすでに80年近い歳月が流れていますが、それでも戦争中の出来事を扱った文学作品が読み継がれ、国語教科書にもいくつかの作品が採用されています。
 例えば『ちいちゃんのかげおくり』(3年)、『ひとつの花』(4年)、『ヒロシマのうた』(6年)などです。ここで紹介する『大人になれなかった弟たちに』(中1年)もそのひとつですが、ここでは、作品の鑑賞ではなく、文法的な視点から作品の中に流れる時間軸について考えてみたいと思います。因みに、作者の米倉斉加年氏(俳優・絵本作家・画家)は2014年に亡くなりました。作品の冒頭の部分は、以下(図)です。

 以上が冒頭の部分です。日本語を自然獲得している人には違和感は感じないでしょう。しかし、この文章を注意して読んでみると、いわゆる過去形(タ形)と現在形(ル形)が混在し、ほぼ交互に使われていることがわかります。なぜ、このような使い方がなされているのでしょうか? その違いを明確にするために、すべて過去形に書き換えてみます。

過去形(タ形)と現在形(ル形)の使い方のルール

 過去形が続くと、一つ一つの文が過去の事実ではあるけれど、淡々とした文になり、どこかそれぞれのことを別々に思い出しているような雰囲気の文になりませんか。
 しかし、過去形、現在形という形で表すと、それぞれの思い出がひとつひとつ関連を持ち、全体の文章の中の一部でありながら、ひとつながりのことであることがはっきりします。また、現在形を使うことで文がいきいきとして臨場感とか躍動感も出てきます。しかし、日本語の文法として、過去のことを述べるときに、このような現在形(ル形)を用いるのは「あり」なのでしょうか?

動作動詞と状態動詞

 日本語の動詞には種類が2つあり、そのうちの一つは動作や変化をあらわす動詞です。こうした動詞は過去を表す時は「タ形」を使います。この文章の中の「戦争に行っていました」「爆弾を落としに来ました」「地下室の中で寝ました」「穴を掘りました」などです。

 もう一つの動詞は、「ある」「いる」「できる」といった動きのない、状態をあらわす動詞で、これらの、状態をあらわす動詞や「~ている」であらわす動詞、形容詞、文末に「~だ」「~です」を用いる名詞、形容動詞(なにで名詞)などは、はじめから過去のことであることがわかっているときには、過去形にしないで使うことができる、というのが日本語のルールなのです。この文章の中では「太平洋戦争の真っ最中です」「おちおち寝ていられません」「部屋です」「・・弟の五人です」「いっぱいの穴です」などです。これらは状態が変化・展開しないでとどまっているので、過去形にしないで使うことができるわけです。そして、そのような使い方をすることで、文章が活き活きとし、今、まさにその事態が目の前で起こっているかのような印象を与える文になっているわけです。

きこえない子どもたちに、国語で何をどこまで指導するか?

 とはいっても、この文章を読んで、イメージが浮かび、臨場感に浸れるのは、自然言語(母語)として文法を空気のように無意識に使いこなせる言語感覚をもっている聴者だからであって、「第二言語」として日本語を学ぶきこえない子にとってはなかなか難しいことです。そのことを考慮せずに教科書の指導書にそう書かれているからと指導しようとしてもうまくいかないことが多いでしょう。
 
 上図は、現実を踏まえてきこえない人たちに求められる社会からの要望(課題)であり実態です。
このような現状にあってまず大切なのは、基礎的な日本語を読み(理解)、書く(表現)力ではないでしょうか。教科書を自分の力で読む力が身に付き、そしてその延長線上にこのような「鑑賞」が成り立つといってもよいと思います。
 では、教科書の文章を自分の力で読めるようになるために、どんな力が必要でしょうか? まずは語彙力と文法力でしょう。この力をつけるためには、教科でいえば「自立活動」。そして国語でいうなら「説明文」と「言語事項」。もちろんそれだけではありません。文を読むためには、知識も必要です。「戦争」「太平洋戦争」「空襲」「防空壕」「疎開」といった周辺知識・関連知識がないと、『大人になれなかった弟たちに・・』の作品は文法的に正しく読めても、内容は半分も理解できないでしょう。「鑑賞」には総合的な力が必要なのです。そこにたどり着く前の段階にいるのが多くのきこえない子どもたちです。まずは、しっかりと日本語の語彙力、文法力をつけ、教科書を自分で読んで理解できる力を子どもたちにつけたいものです。そのうえで、次の目標として「物語文」の「鑑賞」を考える、という二段階で考えていけばよいのではないかと私は思いますがどうでしょうか。

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