時数詞(じすうし)って何?

時数詞
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  ある方から以下のような質問をいただきましたので紹介します。
「時間を表わす名詞で、助詞を使わない場合がありますが、どのように説明すればよいでしょうか? 例えば以下のような文で、子どもは「に」を入れてしまいます。これをどのように説明すればよいでしょうか?

明日 家族で 海に 行きます。
②私は、ろう学校で 2年間 手話を 勉強しています。

子どもは『どうして、助詞がいらないの?』といいますが説明に困っています。

時間や数量をあらわす名詞

 もっともな話です。子どもにしてみれば、名詞のあとには助詞が来るものと理解しているのですから当たり前の疑問です。どう説明すればよいでしょうか?

 上の文①②で使われているような、「明日」「2年間」といった時間をあらわす名詞には、助詞を使わないときと助詞を使うときがあります。以下のような使い方です。

ア.「今日は、出かける日です」

イ.「今日、出かけます」⇒「今日」は「出かける」(動詞)を修飾しているので、国文法では「名詞の副詞的用法」と呼ばれますが、こうした使い方はかなり多いです。

 また、このような用法は時間だけでなく数量に関する名詞にもあります。そこで江副文法では、名詞の時間と数量に関するものを「時数詞」として名詞とは別に扱っています。
 助詞手話記号の一覧表の助詞「に」と「で」のところには、「時間や数量」をあらわす使い方があります。例文では、「3時 会う」「3人 遊ぶ」で、ピンク色の品詞カードが使われていますが、これが「時数詞」です。

 この時数詞の使い方を分類すると、右下の表のようになります。

時間をあらわす時数詞

 質問にあった「明日 家族で 海に 行きます」は、明日という時間のあいだに起こることになるので、「明日、家族で 海に 行きます。」が正しい表現ということになります。
でも、「8月、家族で 海に 行きます」は×です。ややこしいですね。このように、助詞を使わないで用いる時間を表わす時数詞には、「明日昨日来週来月今度」などがありますが、8時5月夏休み」といった時間・時期を特定するような場合には、副詞的な使い方はしないようです。
 

 また、「私は、ろう学校で 2年間 手話を 勉強しています。」は、これも2年間というあいだに起こったことなので、「私は、ろう学校で 2年間、 手話を 勉強しています。」と使います。

 では、次のような使い方は、どうでしょうか?

 ①私は、手話の勉強に、2年間、かかりました。 これは〇です。(2年間に起こったこと)  
 
 ②私は、2年間 手話を 勉強し終えました。  これも〇です。(範囲や期間を表わす「で」です)

 ③私は、手話を 勉強して、2年間 なります。 これは×です。(「時点をあらわす2年 なります」)

数量をあらわす時数詞

 添付した上表のように、「全部3杯少しほとんど10円」といった数量をあらわす名詞も、助詞なしに副詞的な使い方ができます。例えば、「全部、食べました。」「3杯、飲みました。」「少し、ください。」「100円、使いました。」などがそうです。これらは、数とか量を示すときに使われます。では、次の場合はどうでしょうか?

・「全部、10円です。」

・「全部 10円です。」

「全部、10円です」は、それぞれが全部10円といった意味になりますが、下の「全部で、は「範囲」を示す「で」ですので、全て含んで10円という意味になります。

「時数詞」の概念は、どこまで「正しい」か?

 助詞を使わない時数詞は、小学生に理屈で説明するのはちょっと難しいかもしれません。普通は名詞のあとに助詞が来るものと覚えていればなおさらです。どう説明するのがよいのか正直、難しいです。どこまでが一般化できるルールなのか、どこからが例外なのかがまだよくわかっていないのです。
 日本語の言語学者もいろいろと研究しているのですが、まだよくわかっていない文法事項の一つです(『象は鼻が長い』で有名な三上章もこのような使い方には気づいていたようです)。ですから、私たちが日常使っている言語感覚で、一つ一つそのことばが出てきたときに、これは使う、この使い方はしないと分類し、整理して表などにしていくしかないのかなと思います。歯切れの悪い説明になりますがご容赦下さい。
 
 因みに日本語の文法でまだ解明されていないことや考えが研究者によって一致していないことは沢山あります。例えば、「は」と「が」の使い分け方、日本語に主語はあるか? 格助詞の分類と数、形容動詞について等々。
 これからも徐々に解明されていくこととは思いますが現状はそうです。ついでにいうなら私たちが学校で教わってきた文法(国文法=明治の頃、橋本進吉によって提唱された文法理論)もそれが「正しいから」教わってきたわけではありません。歴史的経過の中で、戦前はまだほかに有力な文法理論がなく、たまたまそれ(橋本文法)が採用されて今日に至っているというだけです。

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