きこえるお母さんがきこえない子どもを産んだ時、多くのお母さん方は嘆き悲しまれたに違いありません。それは、そのお母さんがきこえることが「ふつう」のことであり、聴こえない子という「ふつうではない」子どもを産んだことへの悔い、落胆、悲しみの気持ちなのだろうと思います。
しかし、「ふつう」という価値観は人によってその規準とするところは異なります。その証拠にきこえないお母さん方の多くは、きこえない子を産んだ時、喜ぶ人が多いということからそう言えると思います。きこえない人にとっては、「きこえないこと」は「ふつう」のことなのです。おそらく、生まれついたときから「きこえない子」として長い年月を生きてきて、「きこえないこと」は”少数派”ではあっても、特段「異常」なことでもマイナスとみなすことでもなく、今のこの自分が自分にとっては「ふつうなんだ」と思えるようになったということなのでしょう。そう考えると、「きこえないこと」は「ふつうじゃない」から少しでも「ふつう」に近づくように、すなわち「きこえる」ようにしようという判断が唯一正しいとは限らないということになります。
前置きが長くなりましたが、これから紹介する作文は、普通小学校難聴学級に通う6年生の児童の作文です。ある区の作文コンクールで優秀賞を受賞しました。彼は、自分が「普通」とは違う「聴覚障害をもった子ども」として生きてきました。その過程で友達ともいろいろなことがあったかもしれません。しかし前向きに、自分の「障害」について自分の中で一生懸命考えてきました。そして、人はみな一人一人違っていいんだということ、「普通」という概念はそれぞれ人によって違い、一人一人みな違うからこそ、それぞれにとっての「普通」をお互いに認め尊重することが大事なんだという考えに辿り着きます。そして彼は、最後にこう言い切ります。
「僕には僕の、普通があります。そして、あなたには、あなたの普通がある。一人一人を大切にするとは、互いを尊重し合うとは、その普通を認め合うことだと思います。誰もが互いを認め合える世の中を、これから僕達が築いていかなければならないのです。」
以下にその作文を紹介します。「障害」とか「きこえないこと」についてとても考えさせられる作文です。
普通とは何か? 松〇 直〇郎(区立××小学校6年)
普通とは、何なのでしょう。
異常が無いこと。
良くも悪くもないこと。
平凡であること。
普通とは、とても難しい言葉だと思います。
なぜ、僕がこんなに深く考える必要があるのか。それは僕が「耳が聞こえにくい」障害者であり、自分を普通でないと考えていたからです。僕は、自分が他人と違うということを幼いころから薄々分かっていました。しかしながら、最近は、補聴器をつける自分がどこか気に入らないのです。それはきっと、見た目の問題だと思います。補聴器の性能はとても優秀で、性能自体には何の文句もありません。しかし、その形はというと、耳の形に合わせてくるんとカーブした、何とも言えない形です。初めて補聴器を見た人が「なんだろう?」と首をかしげたり、耳の形をちらちらと見たりするのも納得できます。僕は、補聴器をつけることについて、この頃から不安を感じるようになりました。しかし、「見た目が悪い」という程度の理由で外してしまうわけにはいきません。補聴器は、僕にとって必要不可欠なものだからです。僕は、自分が「普通ではない」ことを実感するとともに、そんな自分を情けなく思うようになりました。
そんな時、ふと頭に浮かんだのは、
「みんなちがってみんないい。」
金子みすゞさんの詩の言葉です。「私と小鳥と鈴と」の詩は、それぞれの個性を認め合うすばらしさがうたわれています。これです。その時の僕は、この詩の言葉がスッと心に入ってくるように感じました。自分を他人と比較してしまう自分にも、大きな原因があると気付いたのです。「人と人は、それぞれに良さがあって、欠点も必ずある。それぞれの個性を大切にするべきだ。」こんな簡単な、こんな当たり前のことさえも、僕は忘れていたのです。
金子みすゞさんの言葉で、僕は大切なことを思い出し、その考えを改めることができました。そして、僕がこだわっていた「普通」のおそろしさについて考えるようになりました。
「あの人は普通じゃない」
「普通ならもっとできるはず」
「きみって普通だね」
この三つの言葉を、あなたならどう受け止めますか。もちろん、人によって感じ方は異なると思いますが、これらの言葉をうれしいと受け止める人はいないでしょう。これらの言葉は全て、人を傷つける可能性があると僕は思うのです。言葉というものはおそろしいものです。人を優しく包み込むこともあれば、絶望させ、恐怖のどん底に突き落とすこともあります。
大げさかもしれませんが、さりげなく言ったその一言で、相手は計り知れないダメージを受けるかもしれないのです。
こんな事例を耳ににしたこともあります。
「あの子は普通じゃなかったから、興味本位でちょっといじめてみた。」いじめはどれも悪ですが、人の個性を踏みにじるようないじめ、人格を否定するようないじめは、絶対にしてはいけません。こんないじめが早くなくなることを願うばかりです。
普通という言葉を辞書で引くと、「ほかと比べて、特に変わっていないこと」と記してあります。しかし、今の僕が「普通」について解釈するとしたら、こうでしょう。
「普通とは、人によって基準が異なるため、どれが正当であると言い切ることはできない。人によって普通が異なるということは、すなわち個性があるこということ。」
僕がこだわっていた普通について、一つの結論が出たような気がします。僕は自分と、僕にとっての普通を大切に、これからも胸をはって生きていきたいです。
補聴器は、眼鏡やコートと同じなのです。寒い時にコートを着るように、聞こえにくいから補聴器を使う。見えにくい時に眼鏡をかけるように、聞き取りにくいから、補聴器をつける。補聴器をつけることは、決しておかしいことではないのだと、やっと分かりました。
僕には僕の、普通があります。そして、あなたには、あなたの普通がある。一人一人を大切にするとは、互いを尊重し合うとは、その普通を認め合うことだと思います。誰もが互いを認め合える世の中を、これから僕達が築いていかなければならないのです。