メインストリーミングが世界的に大きな流れとなっている今日、聴覚障害のある子どもが通常の学校・学級に在籍し、かつそのニーズに応じて支援を受けることは意義深いことであるが、実際にはそう簡単ではない。
その最も大きな理由は、音声を聴き取れないもしくは聴き取りにくいことによって、きこえる人と関わるために不可欠な共通言語である音声言語の獲得が困難となる障害であることによる。
かつて『奇跡の人』として戯曲化・映画化もされた盲聾者ヘレン・ケラーは、「盲と聾とのどちらかの障害をなくすことができるならどちらを望むか?」と問われて、即座に「聾を!」と答えたといわれる。
このように、私たち人間は、ことばを介して人と関わり、互いの関係を深め、そこに自己の存在意義を実感し、人との関係性が断ち切られ孤立した環境の中では生きていけない存在なのである。その意味において、他者とのコミュニケーションが阻害される聴覚障害は、人間にとって最も本質的な問題に起因する生きづらさと言えよう。
例えば、周りが全て音声言語という通常学級において、聴覚障害ある子どもがどうすれば周りにあふれている情報を理解し周りとコミュニケーションが可能かを考えてみよう。
まず、授業において他児の発言を含めてその内容がリアルタイムにわかるためには、視覚的な情報保障やその他のさまざまな手立て・配慮が担当教師等によって講じられる必要がある。
例えば、聴力50~60dBの音声言語で会話ができる中等度難聴児であったとしても、通常の学級での授業を聴き取り理解することには相当の困難を伴う。その子どもは教師の話をひとことも聞き漏らすまいと耳を傾け、周りの友人のしていることを盛んにみて、教師が今なにを言っているのか、自分は今、何をしなければならないのか、そのパズルを解くために必死に情報のかけらを拾い集め全体像を構成しようとする。このような時、もし教師が黒板に向かって話し続けるなど難聴児への配慮に欠けるなら、その子にはわからない事ばかりが続き、そのうち自分だけの努力だけでは限界があることを感じ、わかろうとする努力を諦め、ただ日々、机に座っているだけになるかもしれない。実際、そのような難聴児は決して少なくないのである。
授業以外の場面ではどうであろうか? 休憩時間に3~4人の友達と自由におしゃべりし丁々発止のやりとりはできるだろうか? 教室に流れてくる校内放送の内容や突然後ろから名前を呼ばれてその子は聞き取れるだろうか? 一見聴こえて話せる難聴児であっても、学校という集団の場では、実際にはきわめて難しいことなのである。
しかし、もしその子が難聴であることがクラスの中で自然に受け入れられ、必要な情報が周囲の誰かから自然に伝えられるという配慮が日々なされるのであれば、その子の情報・コミュニケーション障害は著しく軽減されるのではなかろうか? その時、この難聴児は、「自分はこのクラスに受けれいれられ、ここには自分の居場所がある」と実感するだろう。この感覚こそが人が生きていく上で、実は最も基本的に重要な感覚なのである。
近年、医療技術の進歩によって90dB以上の高度難聴児も幼少期に人工内耳を埋め込むことによって、きこえ・発音面での改善がみられるようになってきているが、本質的な問題はなんら変わっていない。自分の「障害」を卑下することなく、ありのままの自分を積極的に周囲に発信し、関係を築いていくことが、結果的に生きづらさを改善する重要な手立てとなるのである。
さて、この8月9・10日に、表題のような小学校・中学校で難聴児と関わっておられる先生方が一堂に会し、通常学級に在籍する難聴児の指導・支援のための研究会が開催される。実は私自身(木島)もこの研究会に出席し、先生方と、これからの難聴児支援・指導の充実のために熱い議論を交わしたいと思っている。オンデマンドでの配信も予定されているので、沖縄まで行けない方は、ぜひ、そちらから参加されてみてはどうでしょうか?
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