はじめに
かつての聾学校は、母親が聞こえない子と毎日一緒に聾学校に通い、教室の後ろでノートをとり、家に帰ってからは、学校でやったことを子どもにもう一度教える、という教育が幼児期だけでなく子どもが低学年頃まで当たり前に行われていました。今ならだれもが、不自然な教育方法だと思うでしょうが、それほどきこえない子に「口話法」で子どもに「言葉を教える」ということは難しいことだと思われていたわけです(もちろん「日本語の読み書き」を身につける難しさは今でも変わりませんが)。
このような、いわば母親おまかせの教育方法でしたから、子どもとほとんど接することない父さんとはコミュニケーションがとれないのは当たり前で、お父さんと子どもが話すときは、お母さんが通訳に入るということがきこえない子のいる家庭の普通の光景でした。
時代は変わり、両親共働き、働き方改革など、わが国でも当たり前に語られる時代になってきて、聾教育も母親任せではなく、両親共に協力し合って子どもを育てる、という時代になってきました。そして、最近では、育児休暇をとるお父さんもそう珍しいことではなくなってきましたし、乳幼児相談に夫婦共にいらっしゃることも当たり前の時代になってきました。
そういうわけで、今回は、そのお父さん方にも書いていただいた「0歳児グループ修了文集」の中から、4人のお父さんの手記を、許可を得て紹介したいと思います。今どきのお父さんたちは、きこえない子と、子どもが生まれたときからどのようにかかわっておられるのでしょうか? 以下、ぜひお読みいただきたいです。子どもとの関わり方という点でとてもとても参考になることばかりです。ぜひ子育ての参考にしていただければと思います。
因みに固有名詞等の個人情報は、全てA,B、C・・といった記号に換えてあります。また、ろう学校名も伏せてありますが、都会にある公立ろう学校の乳幼児教育相談とだけ紹介しておきます。
Aちゃんパパ
Aが生まれた頃
私たちはデフファミリーです。とはいえ、自分も妻も聞こえる親や兄弟の中で育ったので、デフファミリーとはどういうものなのか正直よくわかりません。徐々に自分たちのやり方を作っていけたらと思います。
Aが生まれた当時を振り返ると、育児休暇に入る事前の引き継ぎなどで忙しい中、私が緊急入院する羽目になったりと、かなり慌ただしい日々でした。
そんな中、無事に生まれてすごく安心したのを覚えています。私たちはデフファミリーです。とはいえ、自分も妻も聞こえる親や兄弟の中で育ったので、デフファミリーとはどういうものなのか正直よくわかりません。徐々に自分たちのやり方を作っていけたらと思います。
Aが生まれた当時を振り返ると、育児休暇に入る事前の引き継ぎなどで忙しい中、私が緊急入院する羽目になったりと、かなり慌ただしい日々でした。そんな中、無事に生まれてすごく安心したのを覚えています。
初めての育児、慣れない日々の中で新生児スクリーニングや1か月健診の時も聞こえない可能性があるということは指摘されていましたが、それを自分は頭のどこかで認めていなかった気がします。これは自分もきこえない当事者として、今の社会はきこえない人にとって不便なことがいまだに多い、と感じているからです。それを自分の子にも経験させたくないという気持ちが現実から目をそらしていたのかもしれません。
でも4か月目くらいの時に医者から「聞こえません。重度難聴だと思われます。」と言われたときは「あ、そうなんだ。」とあっさり受け止めていました。ここは、自分がすでに経験しているからこその余裕だったと思います。妻も同じ意見だと思います。そして今、家族でPろう学校にお世話になっています。初めての育児、慣れない日々の中で新生児スクリーニングや1か月健診の時も聞こえない可能性があるということは指摘されていましたが、それを自分は頭のどこかで認めていなかった気がします。これは自分もきこえない当事者として、今の社会はきこえない人にとって不便なことがいまだに多い、と感じているからです。それを自分の息子にも経験させたくないという気持ちが現実から目をそらしていたのかもしれません。
でも、4か月目くらいの時に医者から「聞こえません。重度難聴だと思われます。」と言われたときは「あ、そうなんだ。」とあっさり受け止めていました。ここは自分がすでに経験しているからこその余裕だったと思います。妻も同じ意見だと思います。そして今、家族でPろう学校にお世話になっています。
昔と今のろう学校の違い~親子の円滑なコミュニケーションの大切さ
私は幼稚部から中学校までQろう学校に通っていたのですが、聴覚障害者を取り巻く環境や教育方針が、その頃とは変わっていることに本当に驚きました。今も昔も子供が社会に出ても困らないようにという点は共通していると思いますが、そのアプローチの方法はまったく変わっています。昔は口話のみだったのですが、今は手話なども併用した教育に変わっており、多彩なコミュニケーション方法があること、その中に手話も一つとして当たり前に取り入れられていることが当事者として非常に素晴らしい取り組みだと感じました。
子供との精神的な土台を作るには親と子の円滑なコミュニケーション方法を確立させることが必要です。その土台があって初めて色々積み重ねることができる、と考えていますので、その意味でも本当に良い時代になっていると感じます。
次に4つのことについてそれぞれ述べます。
子どもとのコミュニケーションで大事にしてきたこと
子どもと目を合わせること、子供の気持ちを想像して手話などで伝えること、スキンシップの3つです。特に目を合わせるということは、最初は全くしていなかったので妻に怒られながら矯正してきました。スキンシップは時々激しすぎてAに嫌がられることがありますが・・。
子どもとの生活習慣で大事にしてきたこと
お風呂や寝かしつけの時間は、仕事で忙しい時でもできるだけ確保するよう努めてきました。子供が1日の締めくくりを楽しく過ごし、ゆっくり眠れるよう心掛けています。
自分が努力してきたこと
物の名前と手話が一致するよう根気強く何度も繰り返しました。この努力は私自身の経験から来ています。母親による成長記録ノートには、「妹はあれこれ欲しいと言うけど、あなた(私)は目の前になければ言わない。おそらく頭にことばが無いからなのか」と記されています。この記録から、Aにも物の名前を認識させる努力を続けています。最近では写真カードからヨーグルトを選び出し食べたい意思表示をするAの姿を見ることで努力が報われたと感じました。また私も妻も手話の語彙を増やす取り組みも継続しています。
皆さんに伝えたいこと
大きな変化はあまり無いのかな、と思いますのでここでは割愛します。そして個人的に皆さんに伝えたいことをいくつか書かせていただきます。
自己肯定感をもった子に
すでに書きましたが、小さいうちからの親子のコミュニケーションはとても重要です。聞こえないことで社会から受ける問題は思いのほかたくさんあります。場合によっては理不尽すぎないか、と思うこともしばしばです。そういったことを乗り越える、あるいは受け流すには、子ども自身が自分の障害を正しく理解し、その上で自分を肯定する力が必要です。そういった自己肯定は安定した精神の土台が必要不可欠なので、それを家庭内できちんと育て上げてほしいです。私もAの自己肯定感を高める土台を構築できるよう意識しています。
笑顔のある子どもに育てたい
自分の経験の話になりますが、昔、短い間ですがQ町に住んでいました。Q駅から商店街に入る路地すぐのマンションなので商店街を見渡せます。商店街の往来を眺めたりすると、(近くのろう学校に通う)補聴器を付けている親子連れを見掛けることも何回かありました。子どもをよく見ると、笑顔の子どもとそうでない子ども、という違いがありました。どうも手話なり口話なり何らかの形で親ときちんとコミュニケーションがとれているかどうかの差があるように思いました。朝から暗い顔をして歩くというのは子どもながらにつらいのではないかと心配してしまうくらいです。きこえないこと以外は大抵のことができるのに、コミュニケーションができないという理由だけで子どもの笑顔が奪われていいのだろうかと思いながら見ていました。
ディナーテーブル症候群~その寂しさ・悲しさの思い出
私自身も親戚の集まりは苦手でした。話がわからない場にただ黙って居続けるのはしんどく、よく一人で公園などを散歩したりしていました。車で2~3時間掛かる祖父母の家に集まっていたこともあり、土地勘が無いところを歩くのは心細かったのですが、それでも集まりの中に居続けるよりはかなりマシと当時から思っていたのかもしれません。(これはディナーテーブル症候群の一例ですね)そういうこともあって親戚の顔や名前ははっきり思い出せないです。このような寂しく悲しい経験をする子どもをこれ以上増やさないで欲しい、と痛切に願います。私自身、Aを通じて昔の自分を救いたいと思います。それが回りまわってAのためになるんじゃないかな、と。
セルフアドボカシーと日本語の読み書き
セルフアドボカシーという言葉があります。自分の意思をきちんと伝えるためには障害認識と日本語の読み書き能力が非常に重要だと思います。これは一朝一夕で身に付くものでもないので、早い段階で意識したほうが良さそうです。私も日本語力がまだまだなのでどうやって学び直そうかなぁ、と思うばかりです。
ちなみにこの文章も基本は私が書いていますが締めとしてAIに添削してもらいました。便利な時代になったと思います。
最後にひよこ組の先生方、一緒に活動した皆さん、そして何よりAのことを一番に考えてくれている妻に感謝を申し上げます。
Bちゃんパパ
Bの出産予定日は〇月上旬で、×月15日に育休を開始して出産に備えようとした矢先に出生。さらに、出産立ち合いをして十数分後に出生。胎児より空気を読み取ってくれているBである。
子どもとのコミュニケーションで大事にしてきたこと
乳児期はお話が通じないことは承知の上で手話を自然に獲得させるべく、ゆっくり手話で話しかけることに注力してきた。6か月頃に「目線を合わせようと呼びかけをしてもなかなか目線を合わせてくれない」とR先生よりコメントがあり、コメントをいただく前までは何となく目線を合わせてくれたように感じたが意識してみると目線を合わせようとしないことがあったので、目線を合わせてくれるまで待ち、目線を合わせてくれた一瞬を大事にするよう心掛けてきた。また、現在は表現してくる手話の単語が増えてきているので、子どもの言いたいことを代弁しお話しするようにしている。
子どもとの生活習慣で大事にしてきたこと
写真カードを毎日使用し、お出かけの前と帰宅後に提示すると、Bは該当の写真に注視するとともに指差しをしてくる。表現できる手話の数は非常に限られているので、常に食卓に写真カードを置くことによって玩具感覚で遊びながらコミュニケーションをとっていることと、親に問いかけようとしているのでそれに応えている。
自分が努力してきたこと
特に力を入れたことは写真カードの作成で、自身が幼少期の時に写真カードを使用した上でのコミュニケーションをとった記憶はなく、最初の個別相談で「写真カードを作成するように」のコメントで洗礼を受けた。他の人の写真カードを参考にしながら作成に注力してきたが成長に合わせて写真カードを増やしたり内容を変えたりはしていないので、今後は写真カードを増やしたり内容を変えたりしていくようにしていきたい。また、指文字フォントをパソコンに取り込み、「写真+ひらがな+指文字」で作成をしている。
自分の気持ちの変化
私が幼少期に受けてきたろう学校での教育や親からの子育て、大学時代に聴覚障害教育に没頭していた時期があり、自身が有する知識と経験で子育てをしていけばよいと楽観視していた。前述の写真カードの他、様々な人の講演に参加する度に刺激をいただいていることと、ことばや概念の獲得のために絵日記ならず写真日記の作成を近いうちに始めることで自身の子が将来良い大人に成長したのは私の子育ての賜物と思ってもらえるよう今後も育児を楽しみながら邁進してまいります。
さいごに、ひよこ組に受け入れてくださった先生方、そして仲間に加わってくださったパパママ達に感謝申し上げます。
Cちゃんパパ
現在1歳6か月、左耳重度難聴、右耳高度難聴(予想)です。家族構成:父母(ともに難聴)・長男(健聴)・次男(健聴)・末っ子C(難聴)
大事にしてきたこと
写真カードの活用
家族・小学校等、兄弟がほぼ毎日行く場所の写真カードを玄関の壁に貼り、ほぼ毎日見送りの際に「今から『にぃに』は小学校行くよ。ばいばーい」と声掛けを行いました。(これをしないと、当人にとっては周囲の人間が神出鬼没になってしまうことをR先生より忠告されたため)
そうした家族の行動を一つ一つ写真カードと時間と手話で示し合わせつつ、紐づけする事でルーティン化を図り、行動の先を思考できるように工夫をしました。今では朝食後に兄達がランドセルやリュックを背負った時点で兄達に向かって「ばいばい」の手話を行い、行動の先読みができるまで成長が見られました。
最初は写真カード作成手間および置き場所に難航するため、一時期写真カードを使わなくても「手話」だけでも、よく行く場所は通じているのでは?とさぼりがちになってしまっていたのですが、1歳過ぎたあたりからC自身で写真カードを広げて注視する、写真カードの指差し行動がみられるようになった事で、写真カードの重要性を両親ともに再認識・反省し、写真カードの製造幅を広げています。
また、保護者講座で写真カードについての講演があり、使用性についての知見を得たので、親もCも使いやすいように写真カードをリサイズして作り直し、すぐ取りだせるように写真カード用ポーチをボディバッグにつけて、臨機応変、即時対応できるようにしました。そのおかげで外出時、どうしても長男次男に対応に追われる時など、両親のどちらかが写真カードを使いながら説明する事で「おいてけぼり」の時間を最小限にする事ができたと感じています。
興味を持ったことへの幅を広げる
Cの場合、特に下記の2つへの興味が変化・広がっているように感じました。
食べること→食材→料理をすること
まず、一つ目について、元々よく食べてくれる子でしたが、個別相談の際に、バナナを切る・むく体験をしたことをきっかけに食材にも興味を持ったようでした。キッチンにラーニングタワー(ガード棒がある踏み台)を購入し、母と一緒に晩御飯作りの際に、お米を研ぐ、野菜を洗う、火を使うなどの工程を安全確保しながら視・体験の時間を増やしました。そのおかげか、今では家族でピザづくりをやったところ、普通の1歳児であればピザ生地など食べるか落とすか興味を示さない傾向になりがちですが、当人は「これから料理をするんだな」と認識し、周囲に合わせてピザ作りを遂行する姿が見られました。
タイヤ→くるまのおもちゃ→はたらく車
二つ目については、タイヤの興味を示した段階で家にある大きな車のおもちゃ、小さな車のおもちゃなどを集めて足りないものはおもちゃのサブスクを購入し、「タイヤの大きさ」によって遊びの幅が変わる事を認識してもらったところ、一時期はタイヤ・車のおもちゃでしか遊ばないほど夢中になりました。
また、私がびっくりしたのは、大きなタイヤの車と小さなタイヤの車を、縦列駐車に見立てて並べていたが、大→小ときれいに駐車をさせていた事です。ただ並べるだけではなく、特性や違いを理解した上での縦列駐車を完成させていたので、「タイヤを直に触って違いを理解した」ことがうかがえました。もし、健聴の長男や次男のように適当なおもちゃで遊ばせていたらここまでの認識は育たなかっただろうと思います。
事前に一言告げておく・見通しを持たせる
これについては「写真カードの活用」と重複する部分がありますが、当人の家族は当人以外4名いるため正直5人そろった家の中だとカオス状態です。(※賑やかと言えば聞こえはいいですが、裏を返せば情報がまとまってない環境になってしまうという事であり、今何が起きているかの環境理解が我々聴覚障害者にとっては困難であるという事になります。)
そのため、「事前にどこに行くか」「今から何をするか」「これからの予定」等の情報共有を徹底しました。特に土日の朝など、家族全員で「今日の予定」をきちんと共有する事を心掛けてきました。(例:お買い物に行く・公園に行く・昼寝する)。
もちろん健聴の長男や次男の要望などは最初発声だけになりがちでしたが、夫婦ともに「今のは手話じゃないから分からなかったので手話でお願い」と改めて手話での意思表示を徹底していきました。これによって長男も次男も家族での話し合いの際は手話を使う意識が高まり、当人が1歳半過ぎたころには長男次男から手話で「今日の予定なに?」と、問いかけてくれるようになり、わが家の手話力底上げにつながり、当人も兄弟の手話を意識するようになっていきました。
電車に乗る時等、いろいろと周りの風景についてとにかく手話で語る
電車などの公共機関を使う場合や散歩の時等、必ず「写真カードの活用」とともに手話シャワーを意識していきました。・・太陽、木々、乗客など写真カードでは追いきれない面は手話を使う事で、最初は周囲をきょろきょろするだけのCが、手話を使っている人間に対しても注視するようになっていきました。
よくやるのが家族での電車移動の際に家族全員で「しりとり」を全部手話で実践するというものです。もちろん長男も次男も手話は万全ではないですが、手話を使って順番にしりとりする事で「今誰がしゃべっているか」「今誰の番か」が明確になるので、その時のCの注視力は同年代の健聴者と比べても高い印象だなと感じております。
こちらを見るまで待つ
これは夫婦ともに苦労した面です。手話による問いかけ・話しかけに対し、対象者が他を見ても、またこちらを見るまで待ってから、というのをR先生および保護者講座で説明を受けてはおりましたが、上の兄弟2人がいる家庭内でゆっくりとCと会話する時間の確保は困難を極めました。兄弟の会話スピードを当人と合わせるのは正直非現実的であったので 主に親どちらかとCが二人だけの時間などにこの「こちらを見るまで待つ」ことを注力していくようにしました。
子どもとの生活習慣で大事にしてきたこと
鏡シールなど視覚的にわかりやすいレイアウトづくり
聴覚障がい者は背後の情報認識に困難を極めるため、夫婦で相談して、2Fの廊下やリビング、ダイニングテーブル横の壁などに「鏡シール」を貼りました。(最初はCの視線に合わせて「はいはい」の位置に貼り、つかまり立ちするようになったら大きい「鏡シール」をリビングのCのよくいる場所から見える壁に追加で貼りました。)
その後、Cが鏡シールを見ても後ろが見えるため、兄弟が帰ってきたり父(私)が帰ってきたりする情報を着々と得られ、最終的には鏡シールを確認する目線の動きまで両親は確認できるようになりました。父(私)が帰って来た時など、鏡シールの視線から振り向いて手話で「おかえり」とまで表現するようになり、家族全員の笑顔につなげてくれました。
また、鏡シールの利点として「危険排除率向上」があると思います。聞こえない人間は背後の情報が得られないため、極端な話、背後に何かあって振り向いたらぶつかってしまうという事例もあります。(よく聞くのが背後の通行人とぶつかってしまう) 貼ったばかりの時は、まだはいはいが中心の移動でしたが、鏡シールを見る事で後ろに兄弟などがいるという認識を持てた事で、いきなり行動するのではなく鏡シールを見てから行動する面がしばしば見られ、自ら確認するという行為が多くみられるようになったなと実感しました。
体験をできるだけさせる
これは聴覚障がい者に限らず健常者にも言える事ではありますが、特に聴覚障がい者は「体験」による行動と記憶の紐づけからの言語獲得能力向上が期待できるという観点から、できるだけ「体験をできるだけさせる」ことを意識して行動していきました。公園、動物園、イベント、地方旅行などを定期的に行いつつ、日常生活ではつい生活優先しがちになるところを抑えながら、体験時間を多めに確保するようにしていきました。
体験時間の際にも事前に写真カードの作成、体験後は体験絵本を作成する等体験したことがCの中で定着するように工夫もできるだけしてきました。日常生活の中では雨の日や雪の日など、いつもは自転車で兄弟お迎えに行くところを歩きながら向かったり、帰りは寄り道して草や花を触っていったりと自然等の概念を意識してもらったりしました。
特に多い体験機会は我が家の場合「料理」にあたるので、お米を研ぐ、野菜を洗うなどの行為を通して体験時間を意識的に確保するようにしました。
生活のリズムを一定に保つ
朝起きてから、就寝までの生活リズムをできるだけルーティン化させてきました。朝起きたらごはん、着替え、昼ごはん食べたら昼寝、晩御飯食べたら服を脱いでお風呂、歯磨き、布団に行くなど、できるだけ「イレギュラー」が発生しないように決まった生活習慣を行う事で、当人も行動の先読みや状況把握能力が向上し、最終的には「お風呂」の手話だけで、自ら服を脱いでお風呂場に向かうようになりました。
ただ、どうしても旅行時などの外泊に関しては、そこから外れるので、そこは写真カードと手話で事前説明をする事で混乱を最小限に抑えるよう努力しました。
今では昼寝から起きた後はおやつの時間と理解しているようで、リビングに着くなり自分から牛乳の手話をしたりするようになりました。昼寝→起きる→牛乳のルーティン化で牛乳の手話がスムーズに表現できる&読み取れるので両親としても意思疎通の幅が格段に広がり、喜びです。
絵本の読み聞かせ
幸い夫婦の趣味の一つに読書があり、読書の大切さは骨身に沁みているため、家にはざっと2000冊以上の本があります。就寝前にはほぼ毎日絵本の読みきかせを手話で行い、時折、兄弟みんなで絵本を読むなど本に対する時間を大事にしていきました。そのおかげで、今は本を自ら取りに行って広げて楽しむ行動が多く見られるようになり、リビングに置いてあるお気に入りの絵本を握りしめて寝室まで行くことも増えました。
親が努力してきたこと
以下の1~5を通して、情報収集にとどまらず、当人に合った生活スタイルを確立させていくとともに「おいてけぼりにしない」事を念頭に入れてのライフスタイルを徹底しました。一番は「家族の時間は楽しいものである」を最優先事項とし、これからもそのスタイルを徹底していく所存です。
1.兄弟への手話自発的活用の促し
2. 可能な限りろう学校の保護者講座・0歳グループ活動に参加する
3.コミュニケーション時間死守のための家事のアウトソーシング
4.写真でのメモを取る→生活への記録・写真カードへの展開
5.おもちゃのサブスクで発達・興味にあうおもちゃを家に置く
父の心の変化
最初、出生時のCに聴覚障がいの疑いがあり、最終的に確定した時は、正直「苦悩」の方が大きく、すぐには切り替えられなかった時期がありました。周囲の人間は「親が聞こえないなら本人も大丈夫じゃないか」との声もありましたがずっとインテグレーションで育った我々夫婦にとって聞こえない事での弊害や「しなくていい苦労」を死ぬほど経験しているだけに「同じ聞こえない人間」としての喜びよりも「苦労をしてしまう事が分かって、させてしまう」面に引っ張られ、また自分ら夫婦との両親との確執も続いている状況が続いているだけに苦悶しておりました。
ですが、Pろう学校の先生方や周囲の保護者の温かさに救われ、「自分たちとは違って、この子にはできるだけ情報を拾得できる環境を作っていこう」と夫婦で価値観や足並みをそろえる事ができ、今となっては手話でコミュニケーションを取れるようになる、当人の指さしによって意思表示が伝わってくるなど、毎日忙しくも充実して楽しい生活となっております。
将来の不安を考える時間よりも「この子はどんな事が好きなのか」「今何を主張しているか」など、家族みんなで考えたり笑いあったりする時間のほうが圧倒的となり、忙しくも幸せな時間をCは運んでくれました。自分たちの辛い思い出を上書きできるように、日々楽しく生活できるようこれからも頑張りたいと思います。
Dちゃんパパ
子どもとのコミュニケーションで大事にしてきたこと
・「始まり」と「終わり」をきちんと伝えること
これは、Pろう学校を初めて見学した際に、先生から教わった事です。「聞こえない子供は、始まりと終わりをきちんと伝えないと、いつ始まりいつ終わったのかがわからず、物事が流れてしまう」といった理由であったかと思います。私が1番最初に目から鱗が落ちた教えで、初めて覚えた手話でした。
最近は「終わり」を伝えると受け入れたくないのか、Dが見て見ぬふりをする時もあります。遊びやご飯などは特に。伝わっているからこその仕草だと思い、粘り強く「終わり」を伝えるようにしています。
「始まりと終わり」の他に「出発と到着」も頻繁に使うようになりました。出発を伝えるとはしゃいだり、公園に到着したと伝えると遊びたい遊具を手差ししたりと、反応が可愛くて楽しいです。
100%実践できている自信は無ありませんが、常に意識してDと接しています。学校の様々な教えの中でも取り組みやすく、最初に意識する事としてはオススメです。
接する際の距離感
Dと関わっている様子の動画を撮り、R先生に見ていただいた際に教わった事です。私は必死になって伝えようとすると、無意識に近づき過ぎてしまうクセがあるようです。この時まで全く気にした事はありませんでしたが、動画を見て先生に指摘され、「確かにこの距離で手話をしても、近すぎて見えないよな」と思いました。
未だに「今のは近すぎたな」「もう少し離れた方が見やすかったかな」と思う事もありますが、「今のは目が合って、手も見て反応してた!」と感じる時もあります。だんだんと目が合いやすい距離や手話を見てくれる距離がわかってきました。しかし、油断すると近づきすぎてしまう為、これからも距離感に気をつけ、見てもらえる努力をしたいと思います。
子どもとの生活習慣で大事にしてきたこと
・自身の勤務時間が不規則であるが故に、Dの生活リズムが崩れないように接しました。また、生活の一部が合致する時間を大切にし、Dの生活リズムを崩さずに一緒にいられる時間は、できるだけDと関わるよう心がけました(食事、お風呂、遊び、体操、就寝など)。
・様々な物に触れさせ、伝えるよう心がけました。これは物だけでなく、色々な事を体験させました。例えば、風が強い日はベランダに出てみて「今日は風が強いね。寒いね」と伝える。公園に行って紫陽花を見たら「これはピンクだね。こっちは紫だね。あそこに青い花もあるね」と伝えるなど。
最初は私が手話を覚えるついでにやり始めた事でしたが、「イメージできない事は言葉にできない」という事を教わり、今ではDのイメージに繋がるように色々な物に触れさせています。土を触って汚れたり、トマトを食べて甘かったり酸っぱかったり・・・写真カードや図鑑なども活用して、生活の中に「イメージするための材料」を取り入れるよう心がけています。
自分が努力してきたこと
できる限り、家族の活動に加わる
「ろう学校の活動」「家事」「育児」「必要な外出(病院など)」・・・私が思う家庭との動きをまとめる良い言葉が思いつかず、ここでは「家族の活動」と表記させていただきます。
私は、休日のほとんどはろう学校での活動に参加するかDと過ごし、仕事の出勤を遅らせられる日は、前日の帰宅が夜中の2時でも朝を家族と一緒に過ごし、帰りが早ければ妻と手話の勉強をし、通勤や帰宅時は動画で手話を学ぶ・・・この1年、そんな生活をしてきました。
仕事をしながら育児に加わり、手話も勉強するという事は、とてもとても大変でした。しかし、それは初めからわかっていた事です。そして、それらの取り組みは、Dが難聴である事に関係なく必要であったと思います。不規則な仕事をする私を支え、毎日、Dの面倒を見る妻は、もっと大変だったと思います。だからこそ、自分にできる事を模索し、その中で出来る限りの取り組みを行ってきました。周りから見たら努力と呼べるほどの事では無いかもしれません。しかし、何も気にせず流れに身を任せていたら、少なくとも家族の一員からは外れてしまっていたのではないかと思います。
今後もDや妻と楽しく過ごせるよう、積極的に「家族の活動」に参加していきたいと思います。
自分の中での変化
まず初めに、新生児スクリーニングでリファーという結果になった際、「本当に聞こえないのか?」「現代の医学・科学でも聞こえるようになる可能性は無いのか?」と疑問視していました。また、「初めて子供が産まれ、母子共に健康に退院して我が家で生活している」という事にとても満足していた事もあり、難聴に対して不安も無ければ「出来る事をやるだけ」という気持ちでした。言葉にすると今もスタンスはあまり変わりませんが、この頃はただ楽観視して現実を受け入れておらず、難聴を理解していないだけであったと思います。
Pろう学校に通い始め初めて難聴に触れてから、Dの置かれている状況に目を向けて「何をするべきか」「どうやって取り組んでいったら良いのか」を考えるようになりました。この頃から、ようやく現実を見始めたのだと思います。そして「Dの成長と将来の為に、自身が環境要因になる事」「生涯、Dとのコミュニケーションに困らない事」を願い、前向きにろう学校での活動に参加するようになりました。
正直、通うのが辛いと感じる時もありました。周りの親御さんはどんどん手話が上達して、自身の手話の上達の遅さにショックや焦りを感じたこともありました。仕事で数回行けなかっただけで、知らない体操や絵本があり、妻や子供は楽しそうにやっているのに自分は何をしたら良いかわからない。口下手で意見を言うのが得意でないのに、講演会の感想を発表しなければならない。お父さんで参加する人が少なく、心細い・・・ろう学校に行きたくない理由は、いくらでもありました。それでも息子とコミュニケーションが取れなくなるのが嫌で、自分を奮い立たせてきました。
ある時、活動後にお昼ご飯を食べている時に、ろうの保護者の方と会話をしました。初めて、家族や先生以外の人に手話をしました。それが伝わったときは、とても嬉しかったのを覚えています。「息子はブロッコリーが好きです」「〇〇くんのご飯も美味しそうですね」といった簡単な手話でした。それでも、自分の手話が伝わった事がとても嬉しく、自信になりました。成功体験って大事ですね!
同じ頃、仕事が少し落ち着いた事もあり、ろう学校の活動への参加が増えました。講演会の内容がフィードバックされ、色々な遊びや体操をみんなでやりました。息子はお友達とおもちゃを取り合ったり一緒に遊んだり、家では見られない姿を見せてくれました。様々な体験を経て、気がつけば活動へ参加する事が楽しみになっていきました。全く不安がないと言えば嘘になりますが、それでも毎回楽しみにしているし、行けない時は残念な気持ちになります。
以前、妻が「ろう学校で学ぶ事は究極の子育て」と言っていました。ろう学校での活動は、難聴児教育の観点だけでなく、子育てそのものの参考にもなりました。初めての子育てで右も左もわからない私にとって、教わるだけでなく気軽に意見交換ができる環境がある事は、とても助けになりました。今でも私の育児に対するスタンスは変わりません。
「出来る事をやる」「この先も息子とコミュニケーションを取りたい」
Dの将来に不安や心配はありません。これは楽観視ではなく、およそ1年の活動を通して得た経験と様々な教えから、今後の道筋がわかっているからだと思います。長くなりましたが、「何をどう取り組んだら良いか」を考える環境と材料を得られた事が、1番の変化だと感じます。
これからもDと全力で遊べるよう、手話も遊び方も関わり方も全力で学んでいきたいと思います。