新スク後の子どもの成長~進路の異なる3事例から

新生児聴覚スクリーニング・乳幼児教育相談
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新生児聴覚スクリーニング検査(以下、新スク)後の相談支援の状況は、地域によってまちまちです。多くの地域では、確定診断がなされるまでは病院や公的機関からの積極的な支援はなく、担当の保健師さんなどに、自分から相談してみてはじめて相談が開始されるということになることが多いようです。
とはいっても、確定診断ができる3~6か月くらいまでは聴覚障害があるかないかまだわからない時期ですから、「聴覚障害に対する支援」ではなく、保護者とくにお母さんの不安や心配をきいてもらい、赤ちゃんと少しでもゆったりと笑顔で関われるように、心理的な援助やきこえる・きこえないに関係なく、その年齢の赤ちゃんに大切な子育てに関する支援が中心になります。
 また、東京の都立ろう学校のように乳幼児相談で対応してくれるところもあります。

 では、新スクで確定診断がおり、その後、どのように子どもたちは成長していくのでしょうか? ここでは、確定診断の頃に地域の聾学校乳幼児相談(以下、乳相)を紹介され、その後、お子さんがどのように成長していったのか、乳幼児相談2歳児クラスを修了するときの保護者の手記から、4つの事例を紹介したいと思います。

Aちゃん(現在普通中学校在籍)

 新スク後4か月より来談。乳相修了後普通幼稚園入園。4歳で人工内耳装用。普通小学校を経て、現在、普通中学校。
「精密検査をした病院の紹介でPろう学校を訪れることになりました。初めてのろう学校ではたくさんの親子連れで賑わっていました。その中で先生たちが子どもたちに「おはよう、いい天気だね」と話しかけていて、とっても明るくハキハキした先生たちが印象的でした。この時思ったのは「先生は話しかけのお手本なのだ。母親が子どもに話しかける時の模範なんだ。私も真似しよう」ということです。目を見て、ゆっくりと、大きめの声で、子どもの興味に沿って話しかける。これは子どもの語彙を増やす、という難聴児への話しかけの基本になるものなんだとあとで気がつきました。
 子どもへの話しかけを繰り返していると、子どもはやがて興味がある時、何かに感動した時、嬉しい時、悲しい時、びっくりした時・・、子どもは共感してもらいたくて褒めてもらいたくて親の顔を見るようになりました。そんな時にかけた言葉はスッ取り込まれていくということをグループに参加することで知らず知らずのうちに学んでいたのだと思います。

 子どもの難聴確定の前から「聴こえないかもしれないから手話を勉強しなくちゃ」と必死で勉強したことを思い出しました。その時は聴力レベルの差による教育の違いであるとか、聴覚口話法、バイリンガル法など知らず、ただ単語を覚えたりテレビの手話講座を見て丸暗記したりして子どもに話しかけていました。子どもが1歳になるまでは反応もなく、意味があるのかと疑問に思うこともありましたが、だんだんと模倣が始まり、いつしか会話になり、主張になり、ごっこ遊びになり・・・、と変化していきました。

 しかし、2歳くらいから手話と音声との関係について悩みはじめ、本などで調べてみました。手話には聾者の間で聾文化の中で生まれた日本手話と日本語の音声と併用する対応手話があることを知りました。聾児には日本手話が分かりやすいようだ、との意見もある中で、自分は日本手話はまだまだであること、聴者である親が日本手話をどこまでできるのかという不安もありました。一方、親が聴者である以上、音声の世界に引っ張ってこられないものかなと思い悩み始めたのもこの頃であり、音声を意識した手話を使用し始めました。

 今は、手話と音声を併用しつつ、手話的な表現も大好きなわが子。わからない単語はその状況を自分なりに工夫して表現しているのを見ると、やはりよく見ているなあと思います。
 しかし、補聴器も大好きでいろいろな環境音を聞き分けたり、車の音や鳥の声も模倣したりして楽しんでいます。二歳違いのやはり難聴の妹をつかまえて「しまじろうのテレビを一緒に見ようよ」「ママが座って食べようと言っているよ」などど手話で会話するようにもなってきました。同じ障害を持つ二人はいずれは助け合い、たくましく生きていってほしいと思います。」

Bちゃん(現在ろう学校小学部在籍)

 サイトメガロウィルスによる高度難聴。生後4か月より国立聾学校乳相で聴覚口話法で指導を受けた後、1歳8か月より公立ろう学校へ。2歳3か月時人工内耳装用。その後、ろう学校幼稚部を経て現在小学部高学年。日本語も学力も順調に伸び、Jcoss小4年・全20項目通過、小4年読書力偏差値70。 

「Bは20××年、5月2,800gで生まれました。出産後に新スクの説明を受け、任意でしたが軽い気持ちで受けました。まさか検査にひっかかるなんて考えもしませんでした。入院中に何度やっても結果は「リファー」。退院後にも3回しましたがやはりリファーでした。里帰り出産だったので病院の紹介状をもらい、Bが2か月になってから住んでいる近くの病院に行きました。ABRでしたが自然睡眠だったので途中起きてしまい時間切れで断念。運よくその日の夕方に予約がとれたので、今度は座薬を入れておっぱいを飲ませてなんとか検査が終了しました。4日後の夜、夫から「病院から電話があった。だめだっだ」とぼそっと言いました。耳を疑いました。私は絶対大丈夫と強く信じていたので思ってもいない結果に涙が止まりませんでした。夫は「泣いても何も変わらない。これからBのためにできることをやっていこう、と前向きに考えてくれましたが、私も子どもの前では泣くのをやめて笑顔でがんばろうと思いました。が、Bの顔を見ると涙があふれ、これからどうなるのだろうと不安でいっぱいでした。

 2日後に検査入院。1週間後に結果を聞きに行き、サイトメガロウィルスによる重度難聴と聞かされました。その後、小児難聴専門医を紹介してもらい、T先生に出会い、口話、手話、人工内耳などのことも知り、0歳から通える聾学校の存在も教えてもらいましたが、まだまだ先の見えないトンネルで、Bが眠ってから泣いてばかりいるマイナス思考の私に、夫が「何があってもBはB.今はできる限りの手を尽くして一緒にがんばろう。どうなろうともBのことを全力で育てていこう」と私を励ましてくれました。

 生後4か月の時、国立の聾学校に相談に行きました。この頃はまだ手話に抵抗があり、できるなら口話で話せるようになって欲しいと思っていました。4か月のBを抱き、片道1時間半、週1回のグループと月1回の個別相談に1歳7カ月まで通いました。補聴器も早速作りました。この頃は早くに補聴器をつけて教育すれば話せるようなると思っていたので手話を使うことは考えませんでした。

 国立聾学校に通い始めて1年たち、補聴器をつけていても言葉が出てこないし、親子のコミュニケーションもとれず、モノに名前があることもわからなかったので、このままじゃだめだと思う、家で少しずつ手話を使い始めました。「おいしい」などすぐに真似をしてくれたので、感動して、病院でそのことを話したら、T先生は「聴力が重いし手話も使って言葉を教えていった方がいいよ」と言われ、先生の勧めもあって公立ろう学校に通うことに決めました。

 1歳8か月から0歳児グループに入りました。自ら難聴のお子さんを育てられたM先生から、手話の大事さ、難聴や子育て全般のアドバイスをいただきました。Bも少しずつ先生や学校に慣れてきて、手話もどんどん覚え、小さな手を動かしてお話ししてくれるようになりました。もっと早くに手話を使っていたら、もっと早くモノに名前があることに気づかせてあげられたし、親子のコミュニケーションもとれたのに、と後悔しましたが、先生から「まだまだこれからよ!」と励まされました。

 あっという間に年度も変わり1歳児グループになりました(本来は2歳グループ)。S先生は、毎日の生活の中での言葉の育て方、遊びの中での接し方、絵本の読み聞かせ方、絵カードや写真カードの活用の仕方、体験カードの作り方など、毎回いろんな題材で教えて下さりとても勉強になりました。手話と声を両方使って子どもたちに接してくださり、Bも先生が大好きになりました。

 2歳グループになり、家に貼ってある指文字表を見て覚え、指文字も使い始めました。3歳6か月の時には文字も読めるようになり、自分の名前も指文字と文字でわかるようになりました。手話も2語文ができるようになりました。でも、「どっち?」「何色がほしい?」などの質問に応えることがまだできませんでした。こちらが応えを例示して代弁しながら買物ごっこや病院ごっこなどの遊びの中で少しずつ質問にも答えられるようになりました。ゆっくりだけれど確実に成長してきていると思います。 

 補聴器を付けられない日が続き、病院のT先生に相談すると、「おそらく補聴器をつけても何も聞こえないから補聴器をつけるのを嫌がるのかも? 聴覚を活用させたければ人工内耳も考えてみては?」と言われました。Bにとって何がよいのか、手術のリスクや様々な規制など何度も何度も悩んで決断し、2歳3か月で手術をしました。人工内耳前から手話を使っていたので、手術後も変わらす手話で言葉を教えていきました。同時に音声も意識して話しかけました。そしてちょうど術後1年の頃、音声での言葉も出てきましたBからの発信も手話・指文字と音声とで出てくるようになりました。今は友達の輪に入って手をつないだり走り回ったりしてはしゃいでいます。私もそんなBの姿を見て、公立ろう学校に来てよかったなとしみじみ感じています。先生方のおっしゃる通り、手話を使っても音声も育ってきたので信じて頑張ってきてよかったなと思います。

 人工内耳をしたら普通幼稚園に行く人も多いので、私も楽観的に考えていました。しかし、普通幼稚園でのコミュニケーションの難しさ、日本語や学力への懸念など、先生にも相談に乗ってもらい、ろう学校幼稚部に進むことに決めました。Bには、少人数で、しっかりと理解できる環境が大事!というのが結論でした。」

Cちゃん(現在特別支援学校小学部在学)

 チャージ症候群、弱視、気管支切開等の重複障害があり、乳相修了後は地域の療育機関へ。並行して月1回聾学校の相談を継続。現在は特別支援学校小学部に在籍しています。     

「Cはチャージの特徴である目の見えづらさと難聴、呼吸を確保するための気管支切開と管から栄養を入れる胃ろうをしています。命をつなぐNICU(新生児集中治療室)に1歳8ヵ月入院していました。聞こえに問題があることはわかっていましたが、息が出来ない、食べられない、視力も望めないと言われていた当初、耳のことはいつも後回しでした。

 生後5ヵ月でチャージ症候群と診断され、同じ病気のママたちとつながり、聾教育の大切さを教えてもらい、公立聾学校乳相に参加しました。しかし、その後の治療がうまくいかず、聾学校どころか病院以外の外出さえ出来ない日々がさらに1年続きました。入退院の繰り返し、突然おそわれる痛みを伴う出血に苦しみ、24時間チューブにつながれていました。

 動きたい盛りの2歳児。思いっきり遊ばせてあげたい、でも痛みと出血があり限界がある。Cが起きている間は必ず誰かマンツーマンでボトルを抱え複数のラインが抜けないように注意しながら不自由な中でも最大限に自由と楽しい遊びを作り出す努力をしました。

 出かけられない、自由に動けない日々の中で、親としてやってあげられることを探しました。写真カードを山のようにつくり、絵本を手話で読み、写真日記を始めました。入院中のベッドの上でも。治療法が見つからず痛みと出血が続く辛い毎日。今振り返れば母親の私は鬱状態でした。しかし、手話を学ぶこと、Cに手話で話しかけることが、辛い日々に明るさをくれました。しつこくしつこくやり続けたことでCは少しずつ手話を理解するようになり、少ないながらも自分から手話をしてくれるようになりました。

 その後原因が分かり2度にわたり手術。やっと自由な日々が始まりました。乳相2歳児の重複児のグループに入りました。それもあと5ヵ月で終わりという時でした。でも、重複児たちが集まるそのグループは、皆、ゆる~い優しい雰囲気。私もその中ではCの手話のできなさ、全体的な発達の遅さ、医療ケアの重さに対してもゆる~い気持ちで過ごすことができました。Cもはじめは泣いてばかりいましたが、楽しい雰囲気の教室が好きになり、聾学校の写真カードを見せると喜ぶようになりました。

 生きていくために自分の意思を他者に伝えるツールは大切です。人に頼ることが多くなるほど、なおのこと。Cにとって手話を獲得することは、人とつながる喜びと自由が増えることです。手話がCにとって大切な言語になってほしいと願って、これからも手話を続けていきたいと思っています。」

手話のもつよさとは?

 以上、新スクを受けたお子さんの中から、乳幼児相談修了後はそれぞれの道を歩んでいる4人のお子さんと家族について紹介しました。普通校へ進んだ子もいれば聾学校へ進んだ子、別の特別支援学校に進んだ子もいます。発達障害のある子もない子も、また別の障害をもった子もいます。

 この3人の子どもたち皆に共通しているのは、発達早期から手話を使って育って来ているという点です。聴力0デシベルのきこえる子にとって音声言語は100%わかる(=聞き取れる)ことばです。私たちきこえる者は生まれたときから、100%聞き取れるこの音声言語を使って育ちました。
 しかし、補聴器や人工内耳をしても、きこえない子・きこえにくい子は、どこまでいっても音声言語は「100%聞き取れることば」にはなりません。それが「聴覚障害」ということです。その点、手話は視覚言語ですからきこえない子にも100%わかります。ですから手話の獲得もだいたい1歳前後から始まります。100%見てわかる言葉を使って、自由に思いを伝え合うこと。そこから子どものあらゆる成長発達が始まっていくということだと思います。「こころ」も「ことば」も豊かに育てていきましょう!

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