「ディナーテーブル症候群」ということばがあります。周りが皆聴者の家族で楽しく食事や会話をしているときに、難聴児ひとりコミュニケーションの輪から外れている。その時に生じるきこえない子の疎外感や情報アクセス不足から生じるマイナス面。日本では以前から「お茶の間の孤独」という言い方がなされ、聴者家庭にひとりおかれたきこえない子の心理的な疎外感に注目されてきました。
米国での研究『家族団らんに参加できない聾者の体験をもとにした現象学的研究』(David R.Meek,Ed.D. 2020)の中で、デビッド・R・ミークは、「ディナーテーブル症候群」を、そこで生じる3つの現象としてとらえています。
聴者家族との音声言語コミから取り残されること
聴者の家族は、分かりやすく配慮をした口話で話しかけてきます。しかし、きこえない子は家族の会話のスピードが速くなるとついていけなくなり、今、だれが話しているのかわからなくなったり、話の内容がだんだんと把握できなくなります。どうしたらいいのかと思いつつも会話を止めることもできず、仕方なく話の輪に加わっているが、結局はその様子を見ているだけという状況になります。この状況は、聴者の家庭の中ではたぶん頻繁に生じているはずです。
そして、きこえない子は「どうせ見てもわからない」という経験を積み、そのうち家族の会話を見なくなります。
最近のニュースや出来事への情報アクセスの困難
二つ目は、家族が食事をする時やリビングでテレビを見ているとき、誰かが今日の自分の経験したことを話したり、テレビのニュースを見ながら、その内容について思ったことや感じたことをボソッと言ったりします。しかし、きこえない子はその場にいてもリアルタイムにその情報を共有したり把握したりすることができません。
きこえる子は、このような自然な情報を耳から聞き取り、そこで得られた情報が世の中や物事についての知識や常識、そして語彙の増加にそのままつながっていきます。こうした、意図的というよりはたまたま生じた知識を身につける機会を「偶発的学習」と言っていますが、きこえない子はこの「偶発的学習」が困難です。きこえない子を育てておられる親御さんは、きこえないお子さんとの会話を通して、「エッ? そんなことも知らなかったの?」と、わが子の「無知さ」に驚かれた経験は、きっと一度や二度ではないと思います。誰も教えないけれど誰もが知っている知識とは、こうした偶発的学習を通して自然に獲得されるものなのです。
例えば私が経験したことでは、ある年長の難聴幼児が、「タクシーの運転手さんは、どのタクシーでもみんな僕の家を知っているんだよ」と語ったことがあります。その子は、家族と一緒にタクシーに乗るときに、同乗している家族の誰かが自宅の住所を運転手さんに告げていることを知らなかったのです(聞き取れていなかった)。聞こえる子ならだれもいちいち教えないこのような「常識的知識」も、難聴児にはその都度教える必要があるんだと知ったのでした。
また、上位概念のことばなども聞こえる子は偶発的学習を通してどこかで知識を得ていつの間にか知っている言葉ですが、きこえない子はそうはいきません。「野菜」「果物」「乗物」「動物」などは頻度多く使うことばなのでのでまだ習得されやすいことばですが、「文房具」「履物」「家具」「食器」などは、あえて「教えなければ」習得されないことが多いです。
さらに、下記のファイルは、小学校におけるある日の授業風景です。先生の言うことはロジャーマイクを通して難聴児には届いていても、それぞれの子どもたちの発言は難聴児には全く届いていません。子どものつぶやきなどリアルタイムに得られる情報はほぼゼロ。つまり聴覚を通した「偶発的学習」は困難なのです。そのことによって難聴児は語彙の習得にも多様な知識の習得にも大きな制限を受けることになります(これが難聴児の語彙と知識の少なさの直接の原因です)。
しかし、子どもたちが、挙手して指名されたら難聴児にちゃんと顔を向けてはっきり口を開けてゆっくりめに話すとか、ジェスチャーや手話や指文字をつけて話すとか、先生が子どもの発言を再度繰り返すなどの配慮がとられれば、状況は大きく変わります。それは家庭においても同じことが言えるでしょう。逆に言うと、このような配慮がないとき、「ディナーテーブル症候群」が生じるともいえると思います。
会話を通じた帰属意識と家族の中で排除される感覚
家族がお互いの気持ちを理解し合うためには、ことばでの会話がやはり必要です。しかし、きこえない子は自分の気持ちを話したり、本音を吐き出したりすることは簡単ではなく、また家族が自分の気持ちを吐露していても理解できない、といったことがあります。お互いに理解し合うためのことばが十分ではないのです。
例えば、1,2歳下の聴こえる兄弟と口げんかして「勝つ」のはどっちでしょうか? たいていは年下の聴こえる兄弟の方です。また、例えばあなたがアメリカに行ったとき、アメリカ人とあることでトラブルになった。さてあなたは、英語で対等にやりあい、自分の正当性を主張することができますか? 私には無理です。それだけの英語力はありません。
きこえない子は、家族同士十分に気持ちが通じあえる、なんでも思いのたけを語れる自由な「ことば」が少ない。それが家族の中で「自分だけ違う」という感覚を生じさせ、疎外感に繋がっていきます。軽中度難聴あるいは人工内耳装用で一見「音声言語での会話ができる子」でも状況は変わりません。それが「聴覚障害」の難しさです。
(家族に)愛情は感じるが”つながっていない”
上記の3つのことから、結論として「愛情は感じるがつながっていない」という本質的な問題が見出されたと、この研究では言っています。この言葉を聞いて思い出したことがあります。かつて口話法時代に熱心に親に育ててもらった成人聾の方たちが異口同音に言っていたことです。
「親は私を一生懸命に育ててくれた。そして今の自分がある。そのことにはとても感謝している。しかし、親子や家族の中での会話はぎこちなく、心置きなく自由に弾む会話ではなかった。家族含めて皆が繋がっているという感じはなかった」 |
この問題は、本当に深い問題です。聴者の会話の輪にきこえない子が一人だけ加わるときのこのような経験は、家族の中だけでなく、学校や職場などさまざまな場面で生じます。しかし、実際に自分がそのような状況に置かれてみないと、私たち聴者には、なかなか本人たちの置かれた状況を実感として理解することは難しいでしょう。そこで、私たちは、聾学校の中であえてそのような場面を設定したワークショップを実施することがあります。以下は、実際に行ったワークショップで、参加した方がどのような経験を語ったか紹介します。
マイノリティー体験~「お茶の間の孤独」
これは、「音声言語環境下におかれたきこえない人」の逆バージョン「手話言語環境下におかれたきこえる人」という状況を作って、その中で生じる疎外感・孤独感を実感してもらおうというワークショップです。ただ、手話を日常的に使っている方を4,5人集められるということが必要なので事前の準備が大変ですが、こうした設定ができると貴重な体験をすることができます。
今回は、ある聾学校の乳幼児相談で、聾の親御さんの協力を得てその環境を作ることが出来、相談に通っている子どものお父さん方に来校していただき、体験してもらうことができました。以下、その時の様子を報告します。
当日、集まったきこえるお父さん方(いずれも聴者)は全部で6名。ねらいとしては、普段きこえない子・人たちが、聴者の世界の中で日々体験している立場を、お父さん達に実感していただき、これからのよりよい子育てに生かしていただこうというものです。今回は、聴覚障害のある保護者4名の中にきこえるお父さん2人ずつ入っていただき、それぞれ約10分間の雑談(手話での自由会話)に参加してもらいました。10分というと短いようですが、わからない会話の中での10分はけっこう長く感じられるものです。
以下、ワークショップが終わって聴者のお父さん方はどのような感想を持たれたのでしょうか。下記のような感想をいただきましたので紹介します。
きこえるお父さん方の「マイノリティ体験」感想
A.わかる単語をつなげて会話を連想するような感じだった。つながらなくてついて行かれなかった。表情で読み取る感じになった。タイミング良く会話に入ることは大変だと思った。考えているうちに会話がどんどん進んでしまった。家でも親が子どもの立場に立って、フォローしてあげなければいけないと思った。 |
B. 手話のスピードが速くて、全くわからなかった。驚くと共に、貴重な体験だった。自分と同じような経験を娘はするのか?!と思った。子どものために出来ることはしたい、手話を覚えたいと思った。そして、娘には、あきらめないでたくましく生きてほしいと思った。 |
c.手話が速くて分からなかった。ところどころ分かったが、会話としては全く理解できない。子どものことを考えると、わからないことだらけだろうと想像した。あんなに早い手話で、ろうのみなさんも、見落としたり、見間違えたりするようなことはないのか、全部理解できているのかと思った。 |
D.お父さんの手話講座や地域の手話講習会などに参加し、手話に触れる機会はあったが、年末年始で手話をお休みしたこともあって、手話自体使わなかったので、全く今日はついて行かれずあきらめた。会話の中にいると外国にいるのに近い感じだった。 |
E.初めて知らない国に行って、そこにポツンと入った感覚だった。話に目がついていけない感じだった。手を動かす方向を探すように目を動かしていたつもりだが、誰が話しているか追うのが難しかった。ろうの人たちは、話し出す瞬間はわかるものなのだろうか。自分に質問された時には、会話に入っていると感じられたが、そうでない時には疎外感を感じた。きこえる社会の中で、子どもは同じ思いをするのかなと思った。 |
F.語彙力の違いもあるだろうが、今自分の子どもの手話位であればわかる。しかし、これから娘が大人になって、難しい手話を達者に使うようになった時、自分が手話を使っていないので、追いつくか…先が見えた気がした。娘の立場を考えて、これからどうしたらいいか考えていきたい。 |
このように、どのお父さん達も、手話での会話に、わからない、ついてかれない、あきらめた、疎外感を感じたという感想を持たれたようです。ろうの人が手話で楽しそうに会話しながら、時々大笑いをする場面がありましたが、聴のお父さん達は、案の定無表情なまま、笑うことはできずにいらっしゃいました。この姿は、通常の学校に行ってよく見かける子ども達の姿と同じです。クラスの子どもがちょっとおもしろいことを言う、それにみんながどっと笑う、しかし、難聴児はきこえなかったので笑えないという状況と同じです。
家の中では、居間でお笑い番組をテレビで見ていてギャグに家族が皆笑っているのに一人わからないきこえない子という状況も同じです。もちろん、後で「○×△」って言ったから笑ったんだよ、と伝えれば、「そうなんだ」と笑いの意味はわかっても、それは、同じ場で同じ体験をしていることとは全く意味が違います。説明してくれる人さえもいなければ、もはやその場にいないのと同じです。そこに存在する意味すら感じられない教室や家族って何?ということなのです。
また、聴のお父さんからは以下のような質問がありました。それについての聾の方からの答えを紹介します。
質疑応答
Q. ろうの方が、手話でものすごいスピードで話されている様子を見て、誤って見間違えたりすることはないのでしょうか? |
A.今回、初対面で様々な地方出身の方がいたので「?」と思うことは確かにあった。地方によって手話の表現が異なるため、見慣れない手話に話がわからなくなることもある。 ただ、誰が次に話すかを捉えることについては、聴者と違い、視野が広いので、手を動かし始めた人を瞬間的に捉えることができ、会話には困らない。それは聴こえる人たちが数人の雑談の中でもすぐに誰かが話を続けて話し始めるのと同じ。私たちは耳でなく目でそれをやっている。 |
聾の人たちの体験談
さて、今回のワークショップでは、ろうの方々が貴重な話(体験談)をして下さいました。それを紹介したいと思います。
a. 会社では、会議では全くわからないままにおかれている。議事録を見せてもらって、議事録を見て結果を理解している状況。 飲み会には、たまに参加している。1対1だと飲みに行っても分かるからそれなりに楽しめるが、大勢の飲み会だと皆がわ~っと話すのでわからない。聴のお父さん達は、仕事のストレスを発散したり、趣味も楽しんだりしたいだろうに、手話も覚えなければならないので大変だろうけどがんばってほしい。 |
b.自分の父親のことを思い出した。父(聴)は、手話はできない。今歯が抜けてしまい、口話での会話もできない。歯が抜けた父親の長い口話は読み取れない。 母親やきょうだい達は、私が中学生になった時に手話を覚えてくれた。けれども、母は歳をとってきていたので、簡単には手話は覚えられなかった。そういう意味でも、手話は早い内に覚えた方がいいと思う。 しかし、世の中で大切なのは筆談の力。きちんと相手に伝わる文章が書けることが大事。書けばわかる。私はいつもメモ帳を持っている。口話、筆談、身振り、手話、何でもいいから子どもと会話できるようにしてほしい。 |
C.自分の父親も出張が多く、父親が不在なことが多かった。だから、父親とはほとんど会話をした記憶がない。父親と話すことをできるだけ楽しんだ方がいい。 今、会社では、飲み会に参加すると、自分に話かけられている時にはわかるが、皆が話し始めると、全くわからなくなる。筆談をできるだけするようにして参加している。聴者が酔っ払い始めると、口話も筆談も分からなくなり、困ることがある(笑) |
d.幼児からずっと普通の学校で育ってきて、高校からろう学校に入った。始めは手話が全く分からず、指文字で全て会話し、大変だった。友達がゆっくり手話を教えてくれた。 今、会社では、同じ聴覚障害の後輩がいる。自分は上司になるが、聴者は何でも自分に教えてやってくれと任せるので、ちょっと自分は仕事がありますからと断ることもある。 妻は同じようにインテして育ってきて大変な思いをしたという。だから、絶対に子どもはろう学校でわかる授業を受けさせたいと考えている。 |
e.3人兄弟の中で、自分だけがろうだった。両親は聴。食卓では、きこえる家族が皆、音声で話していて、自分だけ分からないという状況だった。さびしい思いをした。今は、自分の家族はデフファミリーなので、手話で楽しく会話している。 |
さて、このようなワークショップを通して、お父さん方はきこえない子どもの立場が理解できたと同時に、きこえない人たちが複数の会話で「わかる」ためには、手話が必要であることも実感されたように思います。音声があちらこちらに飛び交う音声言語の会話では、誰が今何を話しているのか、それを誰がどう受け止めて返したのか…きこえない側はわからなくなってしまうことが、逆の立場で想像できたのではないでしょうか。
しかし、仕事で忙しいお父さん達は、手話を覚えたくても覚える時間がないということに、皆悩んでおられました。その中で、あるお父さんがこうおっしゃっていました。
「きこえない子どもがいる家庭は、その子どもが生きた教材だといえると思います。子どもが何を言おうとしているのだろう、その思いに心を傾け、付き合う中で、子どもが発する表現から十分に手話を勉強できるチャンスがあります。特別に、手話の勉強会に行かなくても子どもと付き合う中で、手話を勉強することはできます。」
確かに!子どもと一緒に遊び、心を通い合わせたい、そう思った時に、子どもから学んだり、お母さんに尋ねたりすれば、具体的な場面を通して、手話を覚えることはできるでしょう。週末だけの短い付き合いでも、効果はあるでしょう。ちりも積もれば山となる。お父さんの手話力も伸びていくだろうと思いました。お父さん、ぜひ、子どもといっぱい遊んで下さい。
子ども達が大人になって、家族で手話を使いながら、ワイワイおしゃべりに花を咲かせ、食事は、手を動かしてばかりで、時間がかかる~そんなすてきな家族に育ちますように。
関連する記事・書籍など
HP記事より
☆「軽中度難聴児に手話は不要?~『手話で育つ豊かな世界』から」
https://nanchosien.blog/rich-world-that-grows-with-sign-language/#keityudo-sign
小説
「コロナ禍の2020年春、手話通訳士の荒井の家庭も様々な影響を被っていた。刑事である妻・みゆきは感染の危険にさらされながら勤務をせざるを得ず、一方の荒井は休校、休園となった二人の娘の面倒を見るため手話通訳の仕事も出来ない。そんな中、旧知のNPOから、ある事件の支援チームへの協力依頼が来る。女性ろう者が、口論の末に実母を包丁で刺した傷害事件。聴者である母親との間に何が? “コロナ禍でのろう者の苦悩”、“家庭でのろう者の孤独”をテーマに描く、シリーズ最新作。」(発行元・東京創元社の紹介文より)
*この本は、聴覚障害をテーマとした丸山茂樹氏の作品の最新作です。「ディナーテーブル症候群」の問題が取り上げられています。東京創元社発行 1,760円(税込)