はじめに
今回紹介する作文は、令和5年度全国聾学校作文コンクールの最高賞である金賞・文部科学大臣賞を受賞した中等部1年生新井翔子さんの作品です。翔子さんは、現在は中高一貫のろう学校である都立中央ろう学校に通っていますが、乳幼児相談から小学部までの12年間は都立大塚ろう学校に通っていました。乳幼児期は手話からスタート。初語は11か月「おいしい」。1歳4か月時の発語は80語。「おはよう、おやすみ、ありがとう、ごめんなさい、パパ、ママ、N(姉の名前)、T(姉の名前)、かわいい、きれい、好き、大丈夫・・」など人間関係・あいさつ語などが多く、人と関わることの好きな女の子らしい語が多かったようです。
その後、幼稚部から小学部へと進んだ翔子さんはきこえない仲間とのダンスチームに参加。イベントやNHKの番組などにも出演していました(今も時々出ているようです)。
大塚ろう学校小学部を卒業して中央ろう学校中等部に進学。その頃から徐々に体調を崩し始め、何度も検査した後、病院の医師からこう告げられます。
「翔子さん、1か月の入院です。」
現実を告げる医師の「衝撃的な言葉」。ここから作文は始まっていきます。不安、疑問、不満、孤独・・。翔子さんは坂道を転げ落ちるように「混乱と絶望」の淵へと追いやられていきます。
しかし、その翔子さんをしっかりと支えてくれたのは、お母さんでした。翔子さんは、母はそばにいなくとも「心の中で繋がっている」ことを確信します。
そしてまた、病院の対応も、障害を持つ人たちに合わせて、安心して入院生活が送れるようにとさまざまな配慮がなされます。主治医の先生は手話であいさつしてくれたり、各スタッフは筆談で丁寧に会話してくれます。どの科に行ってもその対応は変わらずわかりやすい資料と筆談で説明してくれる。このようなぬくもりのある環境の中で翔子さんは、自分は多くの人たちに支えてもらって生きているのだということを実感していきます。と同時に「人は孤独とも戦わなければならない」ことも学んでいきます。自分の病気は誰にも代われないのです。こうした入院経験の中で翔子さんが感じていた「絶望」は徐々に「希望」へと変わっていきます。
貴重な学びの経験を綴った文部科学大臣賞にふさわしい作品です。
また、作文の基本である四段落法を使い、読者を引きつける出だしのひとことなど、作文構成上もよく工夫された作品です。ぜひお読みいただけたらと思います(木島)。
「絶望から希望へ」~都立中央ろう学校中等部1年 新井翔子
「翔子さん、1カ月の入院です。」
今年の五月ころから私は少しずつ体調を崩していた。いろいろな検査をした結果、更に大きな病院に移動し病気が発覚した。それまであまり自覚症状もなく、すぐに帰れると思っていた私に主治医の先生が衝撃的な言葉をおっしゃったのだ。「学校に行けないの、家に帰れないの、ろうなのに入院生活はどうすれば良いの。」私は、夢なのか現実なのか混乱と絶望の状態だった。しかし、内心では、病気は薬ですぐに治るから大丈夫でしょうと甘く見ていた私がいた。
入院は十三歳の誕生日直前に始まった。生活環境がガラリと変わって怖かった。先生や看護師さんとのコミュニケーションを取れるのか、これから病気は治るのか、学校をどうするのかと一気に不安が襲ってきた。夜、一人心の中で疑問や不満を呟きながら声を殺してたくさん泣いた。そんな時、支えてくれたのは母だった。いつもそばにいるのが当たり前だと思っていた母がそばにいないのは、当たり前ではないと入院してから思うようになっていたが、「大丈夫。退院する日はいつか必ず来る。明けない夜はないから。必ず病気も治るから先生を信じよう。」という言葉でそばにいなくとも心の中でつながっているとわかった。
先生や看護師さんはすぐに私とのコミュニケーション方法を聞いてくれた。お互いがスムーズに通じるのは筆談となった。私は、申し訳ない気持ちになった。たくさんの患者がいて、忙しいのに私のために時間のかかる筆談は仕事の負担をかけてしまうのが心苦しかった。
ある日、主治医の先生が、
「おはよう。僕の名前は、〇〇です。よろしくね。」と手話で話してくださった。手話を覚えてくれた先生の気持ちが嬉しかった。その後も先生や看護師さんは、優しく、わかりやすく筆談で積極的に話しかけてくれる。水分の申告の必要があって、最初は、お茶を二百五十mlください、などメモに書いて伝えていたが、ある日看護師さんがカードを作ってきてくれた。私の好きなキャラクターの絵がついていた。これは、他の看護師さんにも好評で、私の為に作ってくれたこのカードは宝物になった。
病院では、驚くことばかりだった。どの診察科に行っても私が聞こえないことがわかっていて、筆談をしてくれる。普段だとまず母に話をして、母が通訳してくれることが多いが、ここでは初めから私が理解できるように私専用の資料を準備してくれて詳しい説明をしてくださるのだ。子供だから、聞こえないからからではなく、一人の人として見てくれることが嬉しかった。
私はこの入院で人に支えてもらっているからこそ今生きていけると気づいた。つまり、生きているのは当たり前ではない。今までの日常は当たり前のことではないと学んだ。同時に、人は孤独とも戦わないといけないとわかった。泣きたいときは泣いていい、笑いたいときは笑っていいとある人からメッセージをもらって心の支えになった。入院生活は、絶望から希望に変わった。看護師さんと話していて、将来、医療にかかわる仕事に就きたいと思うようになった。病院は、医師や看護師さんだけではなく、一緒に遊んでくれた保育士の先生、悩みを聞いてくれる心理の先生、検査技師、事務、クリーンさん、様々な職種の人が働いていた。私もその一員になってみたい。
病気との闘いは続くが、どんな壁も乗り越えられると信じている。今日も人と関わりながら生きていこう。
おわりに
作文の内容については「はじめに」で書きました。ここでは、この作文に出てくる病院のことを書きたいと思います。作文を読みながらこの病院、ほんとにいい病院だなあと思いました。いま、法律に『障害者差別解消法』というのがあるのは皆様もご存じのことと思います。ここ(障壁)をなんとかすれば、障害ある人もみんなと同じように、できないことができるようになるよね、という配慮が社会の側に求められています。例えば、車椅子ユーザーが困る建物の入口の段差を解消するとか、視覚障害者が困る駅のプラットホームにホームドアをつけようとか、聴覚障害者が困る音声ではなく字幕や手話通訳をつけようとか、障害ある人に対してちょっと社会の側が努力すれば差がなくなるよね、といった「合理的配慮」が求められていますが、翔子さんが入院したこの病院は、その「合理的配慮」が行き届いたいい病院だと思いました。
東京都は昨年度、手話言語条例を制定しましたが、その第11条に、医療機関等においても「・・手話を必要とするものがサービスを利用しやすい環境を整備するための取り組み・・」について書かれています。主治医の先生が、わざわざ手話を覚えて自己紹介したのは、コミュニケーションがとれるだろうかと不安になっているきこえない翔子さんに「大丈夫だよ。私たちはあなたに合わせるからね」という安心感、そして、「私たちスタッフは、きこえないあなたのために、あなたが望む最善のことを精一杯やるからね」、というメッセージだったのだと思います。障害ある人もない人も共に生き活躍できる社会は、このようなほんの小さな一歩、歩み寄りからスタートするんだなあと胸が熱くなりました。
さて、翔子さんの病気との闘いはこれからも続くようです。でも、愛情いっぱいに育てて下さったお母さん、お姉さん、おじいちゃんおばあちゃん、一緒に病気と闘って下さる病院の先生、看護師さんスタッフの方たち。そして翔子さんを小さいときから知っているろう学校の先生、友だち。ダンス仲間。多くの人たちが応援しています。大丈夫、あなたは「どんな壁も乗り越えられる」よ、きっと。みんな応援してる!! 最後になりましたが、文部科学大臣賞ほんとにおめでとう!!(木島記)