以下の記事は人工内耳をするにあたって「2歳までにした方がよいのか?」「手話は使わない方がよいのか?」と迷っている保護者の方への医師からの貴重なアドバイスです。『手話で育つ豊かな世界』(全国早期支援研究協議会,2020発行)に掲載された、帝京大学名誉教授田中美郷先生の論稿です。日本の小児難聴医の草分け的存在で耳鼻科の先生方の中でご存じない方はいらっしゃらないと言ってよいでしょう。田中先生はCOR(条件詮索反応聴力検査)の開発で世界的に有名な信州大学鈴木篤郎教室で学ばれ、その後、帝京大学に移られて本格的に小児難聴・早期療育の実践的研究を進めてこられました。90年代初頭は聴覚口話法を推進しておられましたが、その後手話の有効性・必要性に気づかれ、90年代後半には手話も取り入れた支援・指導をされるようになりました。
手話と人工内耳をどう考えるか?
今世紀に入り、わが国でも新生児聴覚スクリーニング(NHS)が普及して難聴が乳児期の早期に診断されるようになり、一方重度難聴児に対する人工内耳(CI)の効果が脚光を浴びるようになるに及んで、最近は乳児期に、しかも両耳にCIを装着させる傾向が目立ってきました。私はこの動向には批判的です。その理由として、
①私は聴覚障害児の早期教育支援をホームトレーニング(HT)方式で続けて50年あまりとなりますが、これまでの経過と成果を分析・考察してみて、聴覚障害児教育の目標は言語教育と人間形成であって、そのために乳児期に敢えてCIを装着させねばならないとする納得できる根拠が見つからない。
②CI早期装着論者の論理はいささか近視眼的で、子どもの先々の人生にとって教育上何が重要かが理解できていないように思える。耳鼻科医によってはCI装着は2歳では遅いという人もいますが、聴能やことばの発達にとって脳の可塑性の高い乳児期から聴覚活用を進めることの意義は、すでに補聴器(HA)による指導において言われてきたことで、特に新しい論点ではありません。2歳では遅いという納得できる根拠は見当たりません。人間形成の視点から格言にある「三つ子の魂百まで」とは無関係でしょう。
③子どもの人工内耳に関しては日本耳鼻咽喉科学会は90dB以下の難聴は適応にしていませんが、これは妥当と思います。問題は、乳児期に潜在的な聴力を精密に知ることは、発達の問題があって一般に困難です。ちなみに私の外来へは、NHS後、聴性脳幹反応聴力検査(ABR)で反応が認められなかったためにCIを勧められた例が時折訪れてきますが、HTに参加してもらって療育支援を続けていると、やがて難聴は90dBないしそれ以下であることが判明してくる例は稀ならずあります。
④CI装着年齢云々には療育法も関係します。耳鼻科医や彼らと行動を共にする言語聴覚士のCIの論文を読むと、多くは語音聴力や構音ないし発音面の効果に目が向けられていて最も重視されるべき言語(language)に深く言及したものが乏しい。言語には生活言語(言語で日常会話ができる能力)と学習言語(言語で高度に抽象的内容を理解し、伝達する能力)という区分がありますが、耳鼻科医やその一派の注目しているのは生活言語面であって学習言語には理解が及んでいません。聴覚障害児教育で重視してきたのはこの学習言語で、私もHTでは後者に重きを置いて言語指導を進めてきました。ここで問題となるのは手話の扱いです。この問題に関し最近注目すべき局面が見えてきました。
米国ボストン大学の教育、認知心理学のホール教授は最近の論文(Hall,ML et al. : Deaf children need language, not(just)speech, first Language 39:367-395,2019)で豪州や米国では子どもにCIを装着させるにあたり、重い難聴を有する子どもに聴覚口話の発達を促すには手話は有害とする説を厳しく批判し、ろう及び難聴児には少なくとも一つの言語(音声言語であれ手話言語であれ)を能力が許す限り習得させる必要がある。そのために自然言語としての手話は有利という証拠が多々あるにもかかわらずCIを勧める人は手話に排他的であると言っています。この事情はわが国も例外ではありません。ホールの論駁は非常に重要な点を突いていますが、このような議論はわが国でも高まって欲しいものです。 ところで、手話を禁じた伝統的聴覚口話法はわが国でも人工内耳推進派によって支持されています。この方法は聴能訓練を乳児期から徹底し、これをベースに聴覚活用により言語発達を促すことを意図してきました。それ故に❝健聴化教育❞とも言われ、理念的に聴覚障害児であることを否定しているとも言われてきました。私は神経心理学的観点からこの方法をボトムアップ法と呼んできました。これに対し私は、現在はホームトレーニング(HT)においては親子のコミュニケーションの円滑化と情緒の安定を図って手話も導入し、視覚的に言語発達を促しています。この方法によると難聴が比較的軽い90dB以下の子どもは手話も使いながら聴覚口話が発達してきます。一方難聴が非常に重い子どもは手話中心に言語を習得していきますが、私は子どものこの選択を尊重し更なる教育を進めていきます。後者のような子どもには、CIを選択する保護者が多いのですが、CI装着後の経過をみていると、聴覚活用ができるようになると手話で習得した言語は必然的に聴覚口話へと移行していきます。私はこのようにして手話で覚えた言語の意味レベルからのトップダウン処理機構を活用して聴覚口話に導く方式を案出し、これをトップダウン方式と呼んでいます。一方保護者によっては手話でブレずに教育を進めて立派に子どもを育てている人もいます。この私の方式ですと聴覚口話と手話を対立させる必要はなく、むしろ手話や指文字を使うことによってコミュニケーションや言語教育は進め易くなり、社会的にはバリアフリーないし共生社会の実現に役立つことになるはずです。斯くして私は伝統的口話法ないし口話VS手話の対立を止揚(Aufheben)し得たと考えています。